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いんふるえんす我丞の情報発信基地。

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2024/05/21 (Tue)

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うそつきの領域

2009/08/05 (Wed)

私は一概に、“嘘吐きはいけない事だよ”とは言えない。
自らも時にうまく嘘をつくからだ。



以前どこかで、
「うまい嘘というのは、事実の中に、必要な分だけの嘘が含まれているものだ」

と聞いた覚えがある。



うまい嘘、というのはつまり、相手に気取られずに自らの言い分をうまく通す嘘を指している。

あるいは、相手に気取られてもその嘘が許容されている場合(つまりまぁ、「仕方ないなぁ(苦笑)」の場合)、はうまい嘘をつけたということになるんだろう。
これについては、多くのフィクションが証となる。
時々、頭に“ノン”をつけていながらフィクションを騙る輩が出ないでもないが。

個々人に範囲を限定するのであれば、
別に、私は嘘を吐くこと自体は罪ではないと思う。
嘘を吐かねば生きていけぬ人もいるだろう。
むしろ、嘘の自分が自分になっているという人もいるだろう。

だが、それらの嘘が誰かを傷つけたり、腹立たしい思いにさせているなら、
その嘘は“失敗した”ものとすべきだと思う。
到底うまい嘘とは呼べないものであるからだ。

たとえそれが、何を守るための嘘であったとしても、
負けであることに留意し、謝罪しなくてはならない。
私個人の経験から、弁解するなら、その後にすることをお勧めする。


本来そこで、
正直に自らの非を認める潮時が来た、と諦めるのが筋である。


だが、潮時を逃してなお、嘘をつき何者かから逃れようとする者も居いる。

もはやそれは、ただの敗走者の言い訳に過ぎない。


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たもくてきほーる

2009/07/25 (Sat)

どっかに“多目的”を“たもく的”ホールだと思ってた面白い馬鹿がいたような気がする。

てぇのはおいといて。
さて、ちょっと今日は“何かをなす”ことについての話。


「木を植えるのが目的ではない。
木を育てるのが目的なのだ。」


っていう話をしよう。

もとは確か、ビッグイシューか何かの雑誌に載っていた、その土地の人たちと一緒に、砂漠に木を植えている団体の話。
土地の人たちは、「ひとつ苗植えたらいくら報酬もらえるよ」ってことで集まる。だから、浅く砂を掘って、さっさと苗を植える。だから木はすぐに枯れてしまうし、土砂降りの雨で流されてしまう。

本当に苗を根付かせたいのなら、自分たちを砂漠から守る木に育てたいなら、もっと本気で、深く深く、穴を掘ってあげなきゃいけない。

でも、木が成長するには、とても長い時間が必要だ。実を結ぶのなら尚のこと。ホンキで木を植えるというのは、長い目で見る心の余裕と忍耐がなきゃ、とてもやってられない大作業なのである。


だーけどさぁ。
苦しい状況にあったり、忙しい時に「待て」「耐えるんだ」なんて言われてもなぁ?「今だってギリギリだよ。何言うか!!」って感じるだろ。
耐えている人にとっては、本当に世の中のどん底じゃない場所でも、
“どん底”に見えてるんだ。
それで、すぐに出せる結果、目の前のノルマや数字、最低限のお仕事だけクリアすればいいや、ってなっちゃうんだよな。


でもそれじゃ、未来まで続く何かは作れないし、
誰の心にも、届きはしない。
自分にも、何もかえってこない。


解っていても出来ない時もあるし、無理無理って首を横に振りたいときだって四六時中あるさ。
だけどね、

一番苦しい時に、そこでぐっと耐える事が出来るかどうか。
踏ん張れるかどうか。
光の届く場所まで歩いて行く努力が出来るかどうか。


俺は、人の真価って、そういうところにあると思う。

なぜ、芸術を大切にするのか

2009/06/01 (Mon)

今日は都内大学某所にて、色々と芸術を鑑賞してきた。

まぁ、あの場所について一番初めに何を言うって、
「なぜこれが大学の門?」
なのだが、それはおいとき。


音楽や、絵、歌。
そういったものが古くから人間に受け継がれ、多くのものが関わろうとするのは、たぶん、「芸術がストレートに人の心を揺さぶる表現だから」ではなかろうか。

「無駄なものが好きなんだよ」等々、その他の説をお持ちの方がいたら、まずは好きな音楽を聞いてみてほしい。
いい?音楽であって、理解可能な言語のJPOPじゃ駄目だよ?
好きなキャラソンも後で聞いてくれ。

もし、特に思い当たるCDもMP3も動画もねーよ、ということであれば、
ヴォカリーズという分野の音楽を当たってほしい。
これは人間の声だが、特に言語は使わない。アディエマスというグループを知っている人ならご存じかと思う。”人間の音”が主体になっている音楽、それがヴォカリーズ。


さて、ぐだぐだ言ってる間に聞き終わった人もいるかもしれんね。
2曲目でも2周目でもいい。どこまでも聞いててくれ。その中で、何かこう、魅せられるというのかな、”音と一緒くたに陶酔する”ような感じがしてきたりしないか?

音の持つ感情が自分と一致する、音に支配される心地よさ
そんなものが出てくる事もあるかもしれない。
あるいは、音の熱気で自分も熱くなってくる。そんな体感覚。

私は、今日の器楽の演奏を聞いている中で、音楽に感情を乗っ取られてしまうような錯覚を覚えてね。しかしこの一体感がまた気持ちいいんだよ。それで今こんな事を書いているわけなんだが、
その状態ってつまり、「奏者が伝えたい事がばっちり観客に伝わった」「そして観客が身体や精神のありようによって答えた」状態じゃないかと思う。音楽という一方的な情報が、実はコミュニケーションの手段だったというわけさ。

この、コミュニケーションという言葉、私は、こいつは結構大事な気がしていてね。だってほら、人間てコミュニケーションしたくて言葉なんて作って、ルール決めまでして誰かさんと喋ってるわけだろう?
例を挙げればきりがないけど、「誰かに、何かを、伝えたい」って欲求は確かにあると思うんだ。

「じゃあ言葉で言えば良いじゃないの」って?うん。そうだね。まったくもってそうだ。言葉で形容詞副詞熟語使って伝えた方が、「私が感じたこと」を共通の、認識されたルール内で伝え合うにはいいかもしれないよね。その方がより詳しいような感じもするし。何より言語化されている。

でも、言葉にしても、「いくら並べても伝わらない言葉」ってのと、「たった2言だけど、ぐさっとくる言葉」ってのあるじゃない?(別に告白の台詞じゃないんだからねー)
そう。言葉にすればいいってもんではなくて。

寧ろ、言葉じゃない方が伝わってんのかもしれない。
だから、芸術や音楽がどこまでもどこまでも人間と共にあるんではないか。

そんな風に思った今日の午後。


境界線

2009/05/27 (Wed)

境界線を引いたことはあるかい?

あの、大人と子供の間に都合よく引いたり、
世界と自分を区切るために置いたり、
誰かと誰かの見えない縁の間に描くやつさ。

もし君が子供のころにチョークでコンクリを線だらけにした事があるなら、その感覚を思い出してくれ。
君の足もとに引かれた無数の線、そいつを踏まないように、ここのマスには入らないようにと気をつけて道の向こう側に渡る。そんな遊びがあったとしよう。

当然、線が増えれば通り過ぎるのは難しくなる。
身動きが取れなくなり、一歩間違えればデッドゾーンに突っ込んで、子供なりに決めた絶対ルールを犯してしまう。
・・・・・・さて、
遊びは一旦そこで収束しなくてはならない。
だってほら、ルールは破っちゃいけないんだよ?
ルールを破ったらどうするんだっけ?

と、そこで大抵の子供は、自分がルールを破った事を合理化する。
特別な場合だと言ってみたり、ルールは今変わったと言ってみたり。
不思議な事に、そこに「ルールを破ったら罰がある」という、
大人の常套句はめったに見られないんだな。

話は、原点に戻る。
線を引いて分けるという行為は、左と右へ、上と下へ、多数と少数へ、正しさと不正解に物事を振り分ける。
そうして区切られた世界には、どうしてだか一方には賞があり、一方には罰がある。
そして私は、グレイゾーンは、認められない傾向があると感じている。

人はいつの間に、2元論で物を語れるようになるのだろう。

脳内辞書

2009/04/26 (Sun)

昨今、魅力的という言葉を使うとき、人を好く、という意味で使うらしい。らしい、と言ったのは、私の頭の辞書には他の意味も載っており、複数の例文が登録してあるからだ。そして、さらに言うなら、第一の意味は「魅力とは、人間的な魅力である」と出る。

では例えば、魅力的な女性と言ったら何が魅力的なのか。脚線美か、流し目か、言葉づかいか、知性か。まぁ、色々ある。正直言って、数年ほど女子ばっかりの閉鎖環境に住んでいるおかげで、私の辞書からは魅力的な男性、というフレーズはページの隙間からいつの間にやらヒラリと出て行ってしまった。

そうなった根源を辿ろう。この例文登録はどこで行われているか。漢字と共に、主に小・中・高等学校で覚えていくのである。その後は日常会話や本が主な言語の摂取源となっていくわけだが、人間、そんなに大量の文章を、しかも万遍なく読むのは相当の暇人にしか出来ない芸当だ。毎日見聞きするとしても新聞やニュース、好きな小説といったところか。
私の場合は主食がライトノベル、副菜が授業プリント、テレビは基本的につけない生活なので、偏っているにも程がある。食べ物でいうなら、主食がちらし寿司で副菜に昆布だろうか。いや、比喩はどうでもよいとして、兎に角、偏っている。

このように、個人によって摂取する言語、文化は大きく異なる。勿論、日本語という基盤の上には載っているのだが、それでも個人間の相違というのは凄まじいものである。

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自己紹介:
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セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!

ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
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