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思考社

いんふるえんす我丞の情報発信基地。

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2025/04/27 (Sun)

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叩き潰される事

2009/04/18 (Sat)

現代日本の、穏やかな日常生活。
更に首都東京の穏便な大学生生活とあらば、
ヲタクNEETもびっくりの平穏な、平和ボケしまくった日々であるはずだ。




だから、例えば自分が住んでいる集団で“何らかの革命”をおこそうとしたら、
そして自分がピラミッドの中腹辺りの人間ならば、
それはもちろん叩き潰されるのがオチなのである。


彼の場合着目すべきは、革命を起こそうと目論んだ本人が、叩き潰された事を悲しんでも、自分かわいそうだと思ってもいない事である。
きっと傍目に見れば一種の薄気味悪さを感じるであろう。
口元を彩るのはかすかな歓喜。否定された痛みは微塵もない。
負けたはずの人間が“負け”を“踏み台”に変換している。
それも、叩き潰されつつさる最中に。
一般常識から考えたら全くもってナンセンス、異常な光景であろう。

だが、本人が感じているのは戦場に闘う一兵卒と同質の高揚、自らが他者を圧しつつある時の戦慄であったりする。
そしてその本人に言わせてみれば、「このような感情をもって周囲の“その他大勢”が1人の抵抗を抑えつけることが出来ないのは、人生を損している」としか言えないのである。

では、何故この“ふつう考えられない”思考回路の切り替えが起こせるのだろうか。
“高揚あるいは自らが他者を圧しつつある時の戦慄”だけであれば、多少愚ではありながらも残酷な感情は大勢の側にも存在しうるであろう。社会一般の篭のうちに閉じ込めることの叶わない、つまり人数の多い少ない以外の要素が、ここにはあったと考えられる。

私はそれを、“目標”と呼びたい。
もちろん、今回何かを起こそうとして失敗した茶番の事を言うのではない。率直な感想を述べておくのであれば、何事も、初体験に失敗はつきものだという事を付け加えておきたい。

自らが予定する未来の中に、現在の自分には為し得ない壁を発見しているとき、その壁を破壊すべく動くための力と知識と技術とを得るための経験や努力への忍耐が生じる。この壁の向こうに得られるものを直感し、ただ黙って耐えるものも居るだろう。あるいは、そうあるべきものとして受け入れやりすごす者も居るだろう。

今回の場合には、自らが忍耐の渦中にあることを知り、また、確かに自分の未来へと道が繋げられていくことを直感して、彼は狂喜したのである。
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personality psychology gdgd

2009/03/09 (Mon)

人格というのは、記憶の連続性により支えられている。

では、例えば二重人格者の記憶はどうなっているかというと、人格Aはすべての記憶を持つが、人格Bは一部の記憶しかなかったりする。また別の二重人格者では、一つの連続する記憶を複数の人格が共有していることもあり、一概に記憶の連続が人格をはっきりと分けているとは言い難い。

心理屋の卵として聞いたところによると、第1人格が逃避のために作り出した人格が第2人格とそれ以降の人格である。
ということは、第1人格の精神的危機を救うためには第2人格に記憶を引き継がない、もしくは引き継いでもダメージを受けない精神構造を持った人格が必要になる。そうでなくば逃避装置としての意味を成しえないからだ。

記憶を引き継がない。

引き継いでもダメージを受けない第2人格の創出。


この2つの選択肢のうち、おそらく簡単なのは第一の選択肢であろう。
即ち、記憶を引き継がないこと。つまりは、忘却という日常的システムの暴走を意図的に引き起こすことである。記憶列の後方へと向かう健忘による日常からの脱却、連続する記憶からの脱却。ケースとして考えられるのは、何もかも投げ出してしまいたい場合。「ここはどこ、私はだれ」状態になりたい場合だ。
このような一時的な記憶喪失に陥った場合でも、多くの健忘症患者においては日常的動作記憶はアクセス可能であるため、生活にかかわること(自転車に乗ったり会話したり)といったことは発症前と同じに行う事が出来るという。

不思議なのは第2の選択肢である。
これが俗に言う2重人格というものであるのだが、第1人格が放棄したがる記憶を「引き継いでもダメージを受けない精神構造を持った人格」であるとしたら、この人格は第1人格よりもタフなのではないだろうか。
何故これが精神世界の底に残され、軟弱な方の精神が表舞台に立たねばならないのだろうか。あるいは、何故、初めから強い精神の方が勝たなかったのだろうか。

おそらく、この“強い”とされる第2人格にも何かしらの欠損、弱体なる個所があるのだろう。そのために社会不適合であるとして内側に潜る精神となった。

自然や社会や、それらと共存し、時に勝つためには必要な要素を、第2人格は持っていないのかもしれない。それとも、傷つかない故に周りから畏怖や忌避の視線を浴びせぬように潜っていたのだろうか。



話の向きは少し変わるが、人間の脳のキャパシティーの観点からして、第2人格が存在することは可能なのだろうか。

これは、そもそも“パーソナリティ”とは何かという問題でもあるのだろうが、もし、人間の脳の多くの部位を使用して一つの人格を作り上げているとしたら、2つ目、3つ目のために新たに場所を取ることは不可能である。
ただ、人格というのは一つの箱に一つ人格というようなありかたではなく、身体の反応や応対の様などを総合したアウトプットに感じられる幻想であるとも言われている。
一個人としての見解を述べるなら、キャパシティーの問題は無いと言えるだろう。

ただ、認知心理的な視座を持ち込んで言うと、認知によって世界を取り込む、そのやり方と受け取った世界の違いが個々の人格形成の素地となるのたが(簡単に言うと、感じ方の違いが性格を作るという話だ)、では、同じデバイスを使用して取り込まれた情報で別の人格を形成するためにはどうしたらいいのか。
即座に考えつく方法としては、人格ごとに感覚する回路をシャットダウンして調節することだ。
だが、視界、聴覚、触覚、痛覚、など、人格ごとに完全に回路を変更することは身体が一つしかない関係上不可能だ。

とすればやはり、第2人格以降の全人格は第1人格と同じ基盤の上に成り立っている事になるのだろうか。

浮遊する思考

2009/02/27 (Fri)

人は、ただ進む事ばかりを考えて生きてきたのだろうか。


いや、何もここで人類にまで話のフロシキを広げる必要はないね。
そうだなぁ。一応、個人からスタートしてみよう。

【進む、進歩する、進化する】
これらの言葉は、みな発展しているその動きを示す言葉だ。
前へ前へと“進む”。人体で言うならば顔面の向いている方へと近づいていく。そのことを“進む”という。

言葉遊びで、「前へ前へとバックした」という文章を持つ詩がある。
あれはたいそう面白い詩なので、まぁそいつは今度紹介するとしてだね、人体には明らかに前後があるということになっている。というのが、この文言から受ける違和感でわかると思う。
前はバックするもんじゃねぇ、進むもの、向かい合うものだ。とかね。

人体に前後ろ、対応する動きである進む後ずさるがあるのはまだわかりやすい。

次に概念的な“進む”を考える。

例えば、だ。
100のタスク(やらなきゃならないこと、と言い換えても良い)があるとしよう。
それが、残り90、残り50となって、ゼロまでいけば、「仕事が進んだ」ことになる。ああ、これもまた概念にはなりきっていないか。

とすると、例を変えねばなるまい。
しかしだねぇ、俺には概念でしかない“進む”がわからんのよ。

概念における“進む”
これには何ぞ問題があるように思う。
(と、感じているこれも“進んで”いるのかどうか怪しい)
そもそも、進んでいるのか。
という問題が。

そっちは前か?お前の鼻面が向いている方向か?
行きたい方向が、わかっているか?


「前も後ろも分からない」この状況を感じたければ、太平洋のど真ん中で、視界の端から端まで海状態の場所を探してぽちゃっと浮いてみるに限る。
道しるべもなく、雨で太陽の位置がわからん、右手はちょっと冷たい、てことはこっちが南極か?と感じるような状況がいい。

もしこの時、帰りつくべき国がわかっているのなら、まだそいつはマシである。
さらなる問題は、
どこへ向かうべきかという指針が何もない状況だ。

この時、浮遊者は自らのカンを頼りに、クソ広い海原を行くことになるだけでなく、その前だか中だか知らないが、兎に角、自分がどこに向かいたいのかを決めなくてはならないだろう。
あるいは、
どこに向かうかは波任せとするか。

「命がかかっているのに適当な事出来るか!!」
と即答できるのなら、君には行き着くべき場所が、もうすでに見えているのだろう。
それが、君の“前”で、“進む”べき場所だ。
遠まわりはするかもしれないが、できるだけ真っ直ぐ行くべし。まず太平洋周りの国のどっかには漂着可能だ。


では、波任せもいいんじゃないかと思った君、
とりあえず、俺と気が合いそうだね(笑)
“前”を定めずに“行く”。
疲れたら丸太か何かにつかまって休む。
自分はどこにいるのか、実はよくわかっていない。
ただ、自分が為すことだけが把握される。
そこに正しさはない。方位磁針付きの豪華客船に乗っている人が通りかかったらなんて言うだろうか。
道を外れているというのなら、すなわち「外道」であろうし、
行くあてがないというのなら、「迷子」みたいなものか。
いずれにしても、誰もが予想だにしない航路をふらふらと彷徨う事だろう。

もしかしたら、ひょんなことで宝箱のありかを見つけてしまうかも。

それは、宝箱に向かって進んでいたとは言い難い。
だって知らずにそこに行き着いたわけだからね。

けれど、地図に載っていない宝箱のありかを探すのに、正しい航路があるのだろうか?
“進む”のではなく、バックしたほうが近道であるのかもしれない。
それはむしろ、“進んだ”といえるのではないか?
ではその次に“前”と呼ぶのは?どこだ?
お前の“前”はどこにある?


・・・なんてことを考えているうちに俺の脳味噌が浮遊していってしまったようだ。どこぞの岸辺に漂着することを期待しつつ、今日はとりあえず寝ることにしよう。

日のないところに影は無い

2009/01/03 (Sat)

やあやあお早う。夜10時をまわるとさすがに地元でも激寒い現実をうっかり体感しちゃった俺様がお届けします。(どこのVIPかと)


夜になると、とても寒い。それはまぁいい。
で、夜と言うのは他にも効力を持つ。
たとえば、だね、ハイテンションになったり意味不明な文言を口走ったり、有る意味酒でも飲んだの君?と聞きたくなるようなぶっこわれぷりを展開する。
人によってそれぞれだけど、この中でも面倒な壊れ方があってね。


「露悪的になる」ってやつ。


自分の嫌なところ人に見せちゃって、それで何がしたいんでしょうねぇ?酒まみれの愚痴のほうが余程聞いている側が楽なのに、返す言葉に困るじゃありませんか。人も自分も傷つくことこの上ない。


というわけで、俺の今年の目標は「露悪的にならない」事です。
あと、そうだなぁ、もうちょい自分を愛せるようになりたいかなぁ。
受身で愛を待ってる人間に向かって「愛されることを待ってる奴に興味は無いね!」と、啖呵切ってみたいんで。


(相も変わらず変な方向に強くなりたがってる大馬鹿者ですが、今年も見かけたらぼこすか叩いてやってください。)

愛することについてうだうだ2

2008/12/24 (Wed)

今日のサブタイトル:結婚


会社の終身雇用って、あれ、一種の"結婚"だと思うんだよね。


それにしても、しかしまぁ、何故に結婚なのだろうね。
結婚の制度っていつからあるんだろうとか、モノガミー制になったのいつだろう

とか考えるけど、
とりあえず今は、「何故、行き着く先は結婚」なのか、考えてみたい。

そもそも結婚て何ぞ?
結婚する、ということは、法律上で家族になるってことだ。
家族になると色々な特典がついてくる。
例えば、扶養控除だとか、遺産相続、緊急時に病院での代理意思決定などなど。

でもまぁ、そういうプラスアルファの部分ってのは結局、社会が後付けした部分であってさ、

根本的に何故"結婚して"家族を作るのか。
それってわからん。
エジプトの神話なんかにはもう既に結婚というか、妻と夫が二人で仲良くしやがれよ的要素があるんで、たぶん、B.C.には既にあったんだろう。

なんでそんなもんが必要だったんだろう。
法律で縛って、宗教で縛って。
人に与えられた命題が「産めよ増やせよ」なら、効率悪いと思わないか?
下手に進化しすぎたおかげで1人産むのにも時間がかかるっつーのによ。

さーて、疑問ばかりが悶々としちゃうねぇ。
例として、いくつかのケースを考えてみようか。

好き合っている男と女が居たとしよう。
言うまでも無く、法的に何の問題も無く結婚可能。
基本的に、離婚でもしない限り一緒に暮らす。

好き合っている男と男が居たとしよう。
ここは日本、同性婚は認められていない。
彼らは形だけでも、と、
結婚式を挙げてくれる教会を求めてアメリカへ。
神様の前で“死が二人を分かつまで”と、誓いを立てる。

好き合っている女と女が居たとしよう。
ここは日本、法律上の家族になるために、
彼女らは片方が片方を養子として登録することにした。
そして多々問題はあれど、
養子縁組の取り消しなんて外聞が悪いことは出来ない。
家族として支えあっていこうと、ある種の諦め。

他にも、IS、性同一性障害などなど、性のグラデーションの中にいろんな性が存在するが、それはまた今度。
上の3組に関して言える事は、


"永遠"という契約、それが
個を超えた何かによって成される。
と、いうこと。


ノーマルにしろゲイにしろ、結局は
法なり宗教なりの結婚をゴールとしている。

自分達の手では「どうしようもない」決め事によって、
二人の決意を後押ししてもらうというわけだ。

まぁ、ここまでをまとめるなら、
結婚とは、人間の意志の弱さをサポートするもの。
ってところかねぇ。

人間が社会的な生物だからこそ、意思の外部委託に似たことが出来るんじゃないか。と、ちょいちょい思ってみたり。



法なり、宗教なりが決めたルールにのっとって“結婚”出来るんなら、ここまでうだうだ言わねぇよ。

よく、決め付けんなって言われるけど、未来を考える人間にとって、予測できない事はすっげぇ怖い。

それは、未来というものの予測材料が「今」だからでもある。
「今」の条件、つまり自分の心や、他人に受け入れてもらってる度合い、なんもかんも未来に当てはめてみて、そうしてふと気づくんだ。

俺は、結婚という安心できる枠組みに入れそうにない。
どうする?俺の未来は一人きりの可能性が高い。

よく、決め付けんなって言われるけど、
未来を考える人間にとって、これは恐怖だ。

君は、どうやって「今」だけ見てるんだい?
どうやったら、未来の自分を受け入れてくれる人が居ると、信じて安堵できる?
自分の心より制度を優先すればつらいと感じなくなるのかい?

そうだね、文章見てわかるとおり無限ループだ。
際限の無いこと限が無い。


だから、俺は、俺と結婚したい。
自分の事をよく知っていて、特に、自分が欲しいものをよぉく知っている。
こんなに俺のことを理解してる人間が他にいるかっての。

しかしそれは無理な話だ。
というのも、「永遠に別れることが出来ない」という意味で、一度自分と"結婚"しちゃっているからだ。
いつだと思う?結構前の話だよ。俺らが生まれてきた時の話さ。

そう、自分がどんだけ嫌になっても、自分とオサラバすることは出来ない。
結婚という幻想を諦めて自分と契約しようと思ってももう既に、自分とは永遠の契約を交わしてある。
俺の場合は少なくとも、神が定めたわけでもなく、法律が定めたわけでもなく、自分が自分であることは、世の終わり(つまり自分の死)まで変えられん事実だ。
一体誰が決めたものやらね。


しかしながら、それはそれで、結婚式挙げる手間隙省けていい、と、逆の発想をしてみるも一興。
あるいは、嘘吐けない悪魔と契約しようと頑張ってみるとか。
足掻くからこそ面白い人間になれるか、それとも、不安を抱えた単なる爆弾になっちまうのか。
それはもう、見る人次第だろうよ。


あ、そういえば終身雇用制度も崩れようとしているねぇ。
会社と結婚できなくなった人間は、会社を如何にして愛するのか。これもまた、気になるところだ。

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HN:
我丞
性別:
非公開
職業:
人の話きく人
自己紹介:
人間27年生。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!

ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。

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Tamariba

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