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思考社

いんふるえんす我丞の情報発信基地。

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2025/04/28 (Mon)

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横方向に

2006/09/25 (Mon)


 首を横に振る、この動作は言うまでも無く『拒否』『否定』を表す動作だね。(まぁ世界には逆のところもあるようだが)日常生活でごく頻繁に行われる否定動作だけれど、否定動作は何もこれだけって訳じゃあない。

 例えば《無言》という動作がある。外国人(特に英語圏の方々)には通用しないけれど、ここは一応日本だからね。是とも否とも言わない立ち姿から迷いや、こころもち否定向きであるという事を示す事ができる。

 他にも、《暴力》をもって反対の意を示したり、たとえにっこり笑っていても《言葉》によって毒々しい反意をもたらす事ができるだろうね。

 ではここで問題を一つ。一番手酷い『拒絶』って何かな?もちろん認識具合、度合いによって個人差は相当あると思うから、一つの回答を正当とすることは出来ないよ。けれどまぁ、君の中でどの方法が一番ココロにさくっとくるかな?

 僕の意見はとりあえず今回は横に投げておこう。問題は君だ。君は自分を傷つける一番の『拒絶』方法を知っているね?どれほどの痛みか知っているよね?ならば、他人に同じ痛みをたやすく味合わせたりはできないよね?それとも、自分の痛みを反芻した挙句に拡大感染させたりする事を望むのかな?

 今日の僕は大分、自暴自棄だからね。自分に向けて言ってるのかもしれないし、知らない誰かに吐きたい言葉なのかもしれない。ひょっとすると知ってる誰かに伝えたいのかもしれない。それにしても、今、僕がシビアな現実生活に戻る事を拒否したがっているのは確かなのだけれど。
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if it were

2006/09/20 (Wed)

君にとって「畏れ」は何だい?

パターンは幾つもあるね。具現、消失、変化。これらに意識、無意識、具象、精神、あれこれ条件節を加えていけばいい。

 さて、このままだと漠然としすぎて、さっぱり分からないだろうね。僕にもさっぱりだ。抽象的な例で悪いが、僕の畏れているものは「絶対」だ。何かが決定された状態で、全方位のどの方向にも動かせなくなる事象の事だよ。小さい事で言うなら魚の小骨だの自転車に乗っていて倒れる事だの、色々とあげる事は出来るんだけどね。あえて、一番のモノをあげてみたさ。

 そう、例えば僕が「絶対」を畏れているとしよう。僕は畏怖の対象から我が身を逃す為に何をするかな?保身の為の予防線、安心の為の逃走経路の確保ぐらいはするだろうね。そうしておけば日常生活において「絶対」に出くわす事はまず無い。

 だが、人生一度や二度や三度や四度くらいは、いや、もっともっとあるだろうか、哀しいかな僕らは「絶対」に出会わなければならない。それは君がそいつを「絶対」と認識するかどうかによるけれど、認識せざるを得ない状況で詭弁を使ってゆるい精神安定を図るのは、あまり得策じゃないと思うよ。

 「畏れ」に出くわしてしまったらどうするのか。大抵の人間はそいつとやすやすと対峙できるほどの力は持ち合わせて無いだろうね。だから、例えそれが「畏れ」の可能性、兆候程度でしかなかったとしても、どこかで、受け止めきれない感情が発生しているんじゃないかな。そしてそれを新たな「畏れ」としてリストに加え、君はさらなる予防線と逃走経路を求める事になる。

 そしてこれは、逃げ続けた結果という事になるのかな。「畏れ」から逃げるあまりに手も足も出なくなる、というのが僕の中では最悪のシナリオだよ。だって手も足も出なくなって、次の可能性が全て捥ぎ取られてしまった状況こそを、僕は 絶対絶命 と呼ぶのだから。

何かをする時に

2006/09/17 (Sun)

 今日は少し私的な話を。あまり思索的な話では無いけれど、聞いてくれるとうれしい。


 皆で何かをしよう!という時に、初めから最後まで何の問題もなく上手く終わる事はとても難しい。けれど、どれだけ話し合いが熱くなっても、その事が終われば、意見の食い違いによる禍根が残ったりしないようにしよう、そうなるように努力しよう、と思っていたんだ。

 けれど現実はそこまで甘くなかった。話し合い自体が出来ない、話し合う習慣が無い、一人ひとりが全く異なる条件を持ってその場に立っていた。一人ひとりの立ち方からして別々なんだという事を思い知った。その上でまとまらない意見を具体案に変えていかなきゃならないし、日にちが迫っていた。

 先にのべた努力の他にも、自分には他にもやらなくてはいけない事があったんだよ。
 生来の仕切り屋でもない自分が、統括力など微塵も無い自分が、小学校の白集団長を適当なままに終わらせた自分が、事もあろうがノリノリだった一日目に喫茶「花音」でいこうぜ甘味処ってしようぜって言った張本人。田舎臭い言葉でいうなら、言いだしっぺ。
 どうすんねん、おれ。
 収拾つけられるのか?その前に俺が真ん中に居るなんて思っちゃいけないよ。みんなが主役だよ。その為に考えて考えて考えて更に考えながら、周囲に心配かけるような言動をとらないようにしなきゃいけない。出来ないと思うな。水の中では、息をできなくなった者から死んでいくんだ。水の中で息が出来るようにならなきゃいけない。


 あの状況を過労というかどうかは知らない。けれど、「これが終わったら役目は終わりだ死んでもいい」くらいの意気でいた。仕事で疲れて帰ってくる親父の気持ちがよくわかった。語気が荒くなる理由が分かった。
 けれど、言いだしっぺの自分は、たとえ精神が崩壊してもできるところまでは暴れる精神と体の総てをセーブし続ける事を覚えなければいけない。
 どれだけ、荒れる精神波に他人を巻き込んだか知れない。

 ようやく終わってみれば、感動より先に、終わってほっとした涙が出そうになった。まだ後片付けが残っていたけれど。
 

 ばらばらだった意見は、ばらばらのままだったかもしれない。けれど、数日間の祭典を締め括るセレモニーで、自分は、一つの小さな光明を見つけたような気になったのだ。
 成し遂げる事は、出来るのだと。


 

距離感

2006/09/16 (Sat)

例えばA氏とB氏の間には距離感がある。

A氏の信条は「理性」であり、彼の生活の一切は無意識下で「理性」という非常に安定した理屈によって支えられている。揺らぎの少なく、一定の結論を論述的に導き出せる、とても良い手法である。

一方B氏の信条は「本能」である。彼の生活の根底には、不思議な直感に裏打ちされた行動理念と危機に対する敏感さがしかれている。感情と気まぐれの成す時折の芸術が、自由の一部を具現している。

距離感の原因は明白だ。「理性」、「本能」、これらはまったく正反対の要素と言ってもさしつかえない。距離感どころか、瞬時的には絶対の隔たりさえも感じるかもしれない。


例えばT氏とK氏の間には親近感がある。

T氏の思考は領域aに及ぶ事が多く、その趣味であるところの守備範囲は領域bを深く希求する。領域aは決して多くの人間と軽々しくわかちあえるものではなく、一人、躯の中に閉じ込めて放つ事は稀である。

K氏の思考は領域aに及ぶ事が多く、趣味bより多大な影響を受けている。さらに彼は自分の中でも不確定且つ不安定の要綱cを保有している。要綱cは壊滅的に日の光を浴びる事の無い暗部に置かれているが、その存在は破れながらも精神体の全てを覆うサイズを持つ。

親近感を持つのは至極当然だ。
共通項である領域aは二人の仲を取り持ち、継続させる糧として働き続ける。また、両者が持つ閉鎖性は同じ対象への相同する感覚として双方に安心を与えるものと見られる。


例えばP氏とQ氏の間には敵対感がある。

P氏の思考は発露までに長い時間を必要とする。そして大きな括りで創出されたP氏の分身は非常な存在感をもって相手に対峙する事を迫る。動かしがたいそれは、時として頑健な重石としても通用する。

逆にQ氏の言論は、単発的に発される、細切れの間断無い提案である。根底には意思を隠しておきながら、発される問の一つ一つで新たな側面を小さく削り取って顕される。

敵対感の発生に異論は無い。
対抗軸より若干ずれた位相にある思考方向、何よりその顕現の仕方は予測を超えた結末の暗示を感じさせる。必要な部分が整う前に浮動項に手をつけるのだが、逆方向から引っぱっているようなものかもしれない。


ところが、A氏の中にB氏は存在しうる。K氏とT氏の間に未明の展開域は介在する。P氏とQ氏の間に同じ対象への興味は混在している。もちろんこの事象は例外ではない。よって全ての人間種に間違いなく当てはまる事だ。

 君は上記のような事が信じられないかもしれない。否認する可能性は十分にあるし、その権限は認可のもとにあるだろう。
 だが、世界は二元論で解決するほど安易ではなく、とりわけ、複雑怪奇な精神構造を持ってしまった動物にとってはYesかNoかで決められる事など少ないのではないか。誰もがそう思っているはずだ。寧ろその中間に位置する結論が選ばれる事が望まれやすかろう。だからこそ「どちらでもいい」という答えも出るのではないか。
 すまないが、ここでもう一度逆接。しかし、だ。現実に全ての中点を見極めようとする者は少ない。理由を挙げればきりがない。時間、努力、どれをとっても必要な要素が不足しすぎている。人もだ、中点を探すよりも強勢の側につくことに偏りがちだ。アベレージなどというものはディーラーの腕一つでどうとでもなるというのに。

 
 そして最後に、一番必要な要素を挙げておこう。誰もが望みながら、現代のとある数値的な壁に阻まれてできないでいるらしい事を。
  「共感或は共鳴、もしくはcompassion」


 或は世界は変わってしまったのかもしれない。その基本構造から総て、私達が積み上げてきた物を裏切り、苛むレヴェルで。ならばその方向さえも糺していけばよいというのは、勝手な思い込みであろうか。

想像主

2006/09/04 (Mon)

 例えばの話さ、君と、最寄の人間は同一物に対して完璧に同じイメージを抱いているかい?だとしたらそいつは奇遇だ。前世に人生、死後に至るまで滅多にあったもんじゃない。その人は大切にするべきだと、俺は思うぜ。

 イメージの違いなんてモノはそれこそ普遍的に存在するんじゃないかな。人間という思考体性生物がこの世に存在する限りはね。現世の生活において考えるべき問題は、その差をどう扱うか、ということだろう。扱い、というと本当の物質の操作のようだな。差に如何様に対処するか、といったところか。

 選択肢1、差をなくす。
例えば、出っ張っているところを切り落とす。或は、凹んでいるところを埋め尽くす。差が無ければ段差も何も無いというわけだね。これはこれで良いところがあるよ。段差につまづく誰かは居ないし、ささいな躓きから起こる喧騒とは無縁でいられるだろうから。
 けど、力のあるブルドーザーみたいなもので地均しをしなくちゃな。

 選択肢2、差はそのまま。
なんとも言いようが無いね。楽だ。現状維持だ。実はそっちこっちでこぼこで仕方が無い。だがその差があって、その差を認め、その波及するところも不本意ながらも認める。何の力も心も要らない楽な作業だぜ。
 そうだ、諦めだけは沢山必要だけどな。

 選択肢3、差を別のものに変えてしまう。
おっと、3つ目に出てきたからと言って信用しちゃならないぜ。大概こういう場所に書かれるのは、厄介で、難解で、不可解な事ってのがセオリーなんだ。むしろやらない方が傷つくものが少ないんじゃないかと思えるほどでな。
 だが、俺はこの方法が世の中を変質させていく原動力になるんじゃないかと思っている。そして、それが勝手な思い込みなんかじゃない事を信じているんだ。


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セクマイ道7年生くらい?
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