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思考社

いんふるえんす我丞の情報発信基地。

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2025/04/28 (Mon)

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定義付け

2006/10/15 (Sun)

 日常生活には定義付けが欠かせない。たとえば君とオタク話をする時、或るキャラKに対するイメージの持ちようは其々に違うわけだから、両者のイメージの照準を同じところに合わせ、「この人は××だよね」とか「あ、その人は絶対○○」とかいう確認が必要になる。微妙な例で申し訳なかったが、このような作業が相手と自分の間の“定義付け”作業である。

 もちろん一人で居る時にも定義づけの作業は無意識に綿々と進んでいる。
 片付けというのは、潔癖症か来客の頻繁な家でもない限り特に必要の無い行動だと思う。部屋の中の物はどこに何が置いてあるか把握してあれば不便することは無いし、掃除機がかけられる程度に床面積が空いていれば君に不潔と言われる筋合いも無かろう。現に茶褐色の有翅生命体は沸いてこないではないか。それなのに、何故時間と手間と気力と労力を使って片付けなんぞするのか。忙しいんじゃないのか自分?

 まぁいい。片づけを開始しよう。とりあえずそこの棚の上に積み上げてあるプリントの類からだ。その後で書棚とB4版サイズの本を、 
 だがそこではたと気づく。勉強机はプリントの類で埋まっているわけではない。部屋中が腐海と化しているわけでもない寧ろテスト前にはこの環境で勉強していた。そのままの状況で十分使用に耐えうる環境のはずだ。何故片付けを始めてしまうんだ、そのまま勉強机に向かいなさい。

 それでもやはり片付けを開始してしまう自分。条件反射を疑う。おそらく、やる気→片付け→勉強、と挙動するように定義づけた何かが、過去に起こっていた。挙動不審な行動の根本に、定義付けがあったのだ。

 とするならば、過去に無意識下において行われた定義付けはこうだ。『勉強する前に、片づけをする』古い記憶の中にあるために理由を特定するのはなかなか難儀である。だがそれは、誰かさんからの絶対命令ではなく、数日前の自身の実感から得られた教訓でもない。過去のどこかに起因する習性みたいなものだ。ここで対面しているのは、過去の自分と、現在の自分だとも言えるのかもしれない。



 
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面について

2006/10/10 (Tue)

世の中には、何処にも無いが故に、何処にでも居る、という
面妖な存在がある。



 今日はちょっと気狂いめいたことを言うかもしれない。ま、聞かなければ良いだけの話さ。イヤホンでも携帯でも耳にあてていると良い。



 その存在は何処にでも存在しうる。しかし、どこにも存在する事は許されていない。そもそもそいつの始まりは、意図せずして自らの意思に関わり無くこの世に生まれてしまったところにある。ひどく不本意だ。それにもかかわらず、そいつはこの世界に生れ落ちてしまった事に対して取り消しを求める事はできなかった。それどころか、そこに存在する事に対しての税金を求められているらしかった。

 そこに在る事は不本意である。だが、既にしてそこに居る。その故に対価を求められる。それは一種の不条理と受け取られる。それが叛意の根底を成す。しかし同時に不条理の解釈をした場合、自分に対する挑戦と受け止め、その状況に対してそいつは奮起する。

 もしこの状況の推移の後に停滞が訪れる場合、考えられる回路は3つ。一つ、自己の崩壊による適合。二つ、世界の崩壊による消滅。三つ、内面の固着化による収束。不条理は生過程における決定項であるので不条理の解決は無いものとする。また、説明を省いたが推移それ自体も停滞と展化の迎合物である。

 世界面はその物体に対して異なる色感体を持ち、その物体と世界面は迎合を不可能の物とする。また、他の感受体との構成面は全個体において別の相を呈する。その結果、ある構成面の個体Aと個体Bは二重の迎合不可の面を内と外にもつ事になる。

 内側の構成面と外側の世界面は同型にして一定距離が適正であるが、相互の形質変化、ないしは一方の膨張、縮小現象により世界面と構成面の反転が起こる。一般用語にして、反在とも言いえるかもしれない。兎角、この時世界面を自己化した個体の認識は世界そのものとなる。



これらは仮定の上に積まれた空論であり、信じるに値しない。


生死を問え

2006/10/07 (Sat)

 日常はとても穏やかで、今日みたいに空が青く光る日なんてのは窓越しの光の中でひなたぼっこに励みたくなる。けど、それ以前、初歩の最初の白い線から始めてみよう?


 僕は、
 君は、何故生きている?


 決して糾弾したい訳じゃないんだ。僕が椅子に座ってキーボードを打っているのも、君が今しがた、手に持ったマウスの動きを一瞬止めてしまった事とか、こいつ頭大丈夫か?って思ってしまった事とか、それらはすべて事象だから。十分にありうる事だし、誰も咎める権限なんて持ってはいないし。

 でもね、今だけ、ちょっとだけでいいから考えてみて?君が生きている、その理由は何だろうか?過去から気にかけている「誰かの言葉」がある?それとも未来に向けられた「誰かとの約束」かな?或は、自分の心に気付かないで、知らないフリ決めこんで「周りの惰性」に生きてる?
 人それぞれに違うから、きっと此処に答えの無い“君”が沢山居るね。

 気付いてなくても、気付いていても良いけれど、一つだけ聞かせてほしい。酷かもしれないから、見たくなければ見なくていいよ。いつか見てくれれば、僕はうれしいけれど。


 生きる理由は、ほんとに自分の中にある?


 ねぇ、君は誰かの為に自分は生きなければならない、生かされてしまった、やりたい事無いけど生きた方が良い、って思った事ないかな?人の為に生きるってのも、献身的でなんかカッコイイ。でもそれって、理由を人に求めて生きていくって事だよね。理由が無くなったりしたらどうするんだろう。自分に理由を求めないズルさも知っているなら最高だね。けど、何もかも自由にしていいよバイバイって手を振られたら、どうするのかな。

 そう、自由。人に干渉すれば跳ね除けられ、干渉しなければ構われる。そういう世界なら、自分がどうしようと構わないよね。でも僕らの問題はたぶんその辺り。「どうしても○○○○○がしたい!」って思ったときに、どうしても人が関わってくる。どっかで、ぜーったい。その時に、自分がどうしてもしたいって欲求があるならそれは対象者のせいにはできない。傷つこうと縊り殺されようと自分のせい。ゴキブリホイホイの餌食並みに言い逃れきかない。

 こっちの勝手な理由で相手に気持ち押し付けて全部喪失したくないなら、おそらく一つだけ方法があるよ。僕には、こうするしかないように思えてしまって、他のやり方が見当たらないから言うんだけど。
 それは、相手の合意をもらう事。相手の理由をこっちに預かるのさ。そうすれば、自分だけ傷つかないで済むってわけだ。



 ねぇ、僕に人を理由にするだけの狡猾さはあるかな。
 教えてほしいよ、自分の中にだけ理由を見出す方法を。
 どうやったら生きていける?

陰鬱とした?

2006/10/05 (Thu)

果て無き読書地獄から無事生還を果たした騎士に若干の褒章を。

って、褒められたコトではないんだがね完璧これっぽっちも。


 のっけから問題。上記のように捻くれた態度を取る事をなんと言うか正解は「僻む、ひがむ、ひがみっぽくなる」です。(先生容赦ないです3秒くらい時間下さい)嫌ですよとっとと喋りますよ今日は。

 鬱?っぽい人を、最近よく見かける。数十年前には気が弱いの一言だった弱小病が、今では病原菌を百均で売っているのかと思うほどスバラシイ広がり方を見せている。そのうち抗体も売り出してくれちゃったりするのかな、いやぁ先行き楽しみじゃぁ無いかね?

 何、楽しみじゃないって?まぁ俺もそういう反応が順当だと思うよ。といってもね、ここで大切なのは病原菌を100均で売ってる事じゃなくて、「鬱の抗体が100円程度で手に入るほど安いのか」って事だと思うんだよね。だって、俺の考えによれば、抗体は他人の身に宿ってる物だから。しかも自分が必要とする抗体持ってる奴は少ない。となれば、安価でへいぴょい売って儲けられる代物じゃぁないだろう。やれやれ、商売上がったりだね御愁傷さん。

 鬱の抗体、それは限定された対象の中にのみある。悪いけど医者はいねぇ。俺は医者ではナイ。免許が無いからといってブラックジャックでもない。というわけで、探索者にして唯一その病気に囚われた患者であるところの君が、抗体を見つけてこなきゃならねぇ。治りたいなら、な。

 実は、その病気ほっといても本人は意外と満足してたりするんだよな。だから周りの奴も、見つけて速攻治さなければシュワッチとか燃えたり萌えたりしねぇ。そのまんま病魔に付き合ってれば介添人が燃え尽きるぜ。

 けどさ、だからといって病原体と仲良く一生楽しく暮らしていけるって訳には行かないんだよ。本人はいいかもしれねぇよ?けどな、きっと先に抗体見つけた奴が、抗体見つけて鬱脱出した近くの奴が、どんだけ痛いのかって思って泣くだろう眉間にシワ寄せるだろう。心配してるはずだよ。

 そーゆー優しい奴らに迷惑かけるなとは言わねぇ。苛々してるなら当たって喚いて、そのあげく泣きついたって良いだろうそれくらい赦されるだろう。そうしてるうち、君はどこかで見つける。

 
一番必要な、それ、を。

蜂葉

2006/09/27 (Wed)


 人を信じるというのは、哲学者にとって結構な作業である。
 よーな気がする。

 というのも、哲学は身の回りの当たり前を疑ってかかるところから始まっちゃったりするからで。デカルトなんて疑いすぎて自分の思考があるという結論しか残らなかったぐらいだし。んで当然、それと同じように日常生活を営もうとするとそっちこっちで支障が出る。だが、当人は必死でなんでだろうなんでだろうって考えてるので支障が出ているとは気付いていなかったりする。意識の狭窄って奴かね。

 話を戻すけれど、疑心暗鬼な性格の故に、他人が当たり前に信用だの信託だのやっていることを自分が出来ない。まぁまずそれは確定項で置いとくとして、人間やら事象やら信じるのにいつもどんな手段をとっているかというとこれが面倒で、一々「約束」をしたのだと思って相手に任せる訳ね。約束ってのは絶対ではないにしても「嘘ついたらハリセンボン飲ます」の言葉通り(魚のアレだとしたら相当痛いわコレ)相手と自分との間が対等っつーのも何だけど、相手は相手で何がしかを賭けた状態になるわけで。あー説明するのもしんどいというか厄介というか。

 じゃあ「一々疑ったりするのを止めるといいよ考えすぎだよ」って言ってくれる人がよく居るんだけどさありがたいことに。ごめんねーそれは出来ないんだー。そうしたら精神的に楽だし周りの普通の生活によく馴染んで皆とっても心配事減るんだろうなぁとは思うんだけどさぁ。うん、よくわかってるつもりなんだけどさ、逆接なんだよ。

 俺が考えたり悩んだりするのを止めちゃうと、俺は俺でなくなっちゃうのね。たぶん。っていう思いがあるから、俺は自分で居続ける為に哲学しなきゃならないんだ。

 すごく、我侭だと自分でも思う。でも、諦める気は無し。
どーしようかこの害虫ってかんじですが。


ま、一昔前の物書きと変人ぎりぎりの哲学者ってそんなもんですよ。

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人の話きく人
自己紹介:
人間27年生。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!

ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。

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