思考社
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距離感
例えばA氏とB氏の間には距離感がある。
A氏の信条は「理性」であり、彼の生活の一切は無意識下で「理性」という非常に安定した理屈によって支えられている。揺らぎの少なく、一定の結論を論述的に導き出せる、とても良い手法である。
一方B氏の信条は「本能」である。彼の生活の根底には、不思議な直感に裏打ちされた行動理念と危機に対する敏感さがしかれている。感情と気まぐれの成す時折の芸術が、自由の一部を具現している。
距離感の原因は明白だ。「理性」、「本能」、これらはまったく正反対の要素と言ってもさしつかえない。距離感どころか、瞬時的には絶対の隔たりさえも感じるかもしれない。
例えばT氏とK氏の間には親近感がある。
T氏の思考は領域aに及ぶ事が多く、その趣味であるところの守備範囲は領域bを深く希求する。領域aは決して多くの人間と軽々しくわかちあえるものではなく、一人、躯の中に閉じ込めて放つ事は稀である。
K氏の思考は領域aに及ぶ事が多く、趣味bより多大な影響を受けている。さらに彼は自分の中でも不確定且つ不安定の要綱cを保有している。要綱cは壊滅的に日の光を浴びる事の無い暗部に置かれているが、その存在は破れながらも精神体の全てを覆うサイズを持つ。
親近感を持つのは至極当然だ。
共通項である領域aは二人の仲を取り持ち、継続させる糧として働き続ける。また、両者が持つ閉鎖性は同じ対象への相同する感覚として双方に安心を与えるものと見られる。
例えばP氏とQ氏の間には敵対感がある。
P氏の思考は発露までに長い時間を必要とする。そして大きな括りで創出されたP氏の分身は非常な存在感をもって相手に対峙する事を迫る。動かしがたいそれは、時として頑健な重石としても通用する。
逆にQ氏の言論は、単発的に発される、細切れの間断無い提案である。根底には意思を隠しておきながら、発される問の一つ一つで新たな側面を小さく削り取って顕される。
敵対感の発生に異論は無い。
対抗軸より若干ずれた位相にある思考方向、何よりその顕現の仕方は予測を超えた結末の暗示を感じさせる。必要な部分が整う前に浮動項に手をつけるのだが、逆方向から引っぱっているようなものかもしれない。
ところが、A氏の中にB氏は存在しうる。K氏とT氏の間に未明の展開域は介在する。P氏とQ氏の間に同じ対象への興味は混在している。もちろんこの事象は例外ではない。よって全ての人間種に間違いなく当てはまる事だ。
君は上記のような事が信じられないかもしれない。否認する可能性は十分にあるし、その権限は認可のもとにあるだろう。
だが、世界は二元論で解決するほど安易ではなく、とりわけ、複雑怪奇な精神構造を持ってしまった動物にとってはYesかNoかで決められる事など少ないのではないか。誰もがそう思っているはずだ。寧ろその中間に位置する結論が選ばれる事が望まれやすかろう。だからこそ「どちらでもいい」という答えも出るのではないか。
すまないが、ここでもう一度逆接。しかし、だ。現実に全ての中点を見極めようとする者は少ない。理由を挙げればきりがない。時間、努力、どれをとっても必要な要素が不足しすぎている。人もだ、中点を探すよりも強勢の側につくことに偏りがちだ。アベレージなどというものはディーラーの腕一つでどうとでもなるというのに。
そして最後に、一番必要な要素を挙げておこう。誰もが望みながら、現代のとある数値的な壁に阻まれてできないでいるらしい事を。
「共感或は共鳴、もしくはcompassion」
或は世界は変わってしまったのかもしれない。その基本構造から総て、私達が積み上げてきた物を裏切り、苛むレヴェルで。ならばその方向さえも糺していけばよいというのは、勝手な思い込みであろうか。
A氏の信条は「理性」であり、彼の生活の一切は無意識下で「理性」という非常に安定した理屈によって支えられている。揺らぎの少なく、一定の結論を論述的に導き出せる、とても良い手法である。
一方B氏の信条は「本能」である。彼の生活の根底には、不思議な直感に裏打ちされた行動理念と危機に対する敏感さがしかれている。感情と気まぐれの成す時折の芸術が、自由の一部を具現している。
距離感の原因は明白だ。「理性」、「本能」、これらはまったく正反対の要素と言ってもさしつかえない。距離感どころか、瞬時的には絶対の隔たりさえも感じるかもしれない。
例えばT氏とK氏の間には親近感がある。
T氏の思考は領域aに及ぶ事が多く、その趣味であるところの守備範囲は領域bを深く希求する。領域aは決して多くの人間と軽々しくわかちあえるものではなく、一人、躯の中に閉じ込めて放つ事は稀である。
K氏の思考は領域aに及ぶ事が多く、趣味bより多大な影響を受けている。さらに彼は自分の中でも不確定且つ不安定の要綱cを保有している。要綱cは壊滅的に日の光を浴びる事の無い暗部に置かれているが、その存在は破れながらも精神体の全てを覆うサイズを持つ。
親近感を持つのは至極当然だ。
共通項である領域aは二人の仲を取り持ち、継続させる糧として働き続ける。また、両者が持つ閉鎖性は同じ対象への相同する感覚として双方に安心を与えるものと見られる。
例えばP氏とQ氏の間には敵対感がある。
P氏の思考は発露までに長い時間を必要とする。そして大きな括りで創出されたP氏の分身は非常な存在感をもって相手に対峙する事を迫る。動かしがたいそれは、時として頑健な重石としても通用する。
逆にQ氏の言論は、単発的に発される、細切れの間断無い提案である。根底には意思を隠しておきながら、発される問の一つ一つで新たな側面を小さく削り取って顕される。
敵対感の発生に異論は無い。
対抗軸より若干ずれた位相にある思考方向、何よりその顕現の仕方は予測を超えた結末の暗示を感じさせる。必要な部分が整う前に浮動項に手をつけるのだが、逆方向から引っぱっているようなものかもしれない。
ところが、A氏の中にB氏は存在しうる。K氏とT氏の間に未明の展開域は介在する。P氏とQ氏の間に同じ対象への興味は混在している。もちろんこの事象は例外ではない。よって全ての人間種に間違いなく当てはまる事だ。
君は上記のような事が信じられないかもしれない。否認する可能性は十分にあるし、その権限は認可のもとにあるだろう。
だが、世界は二元論で解決するほど安易ではなく、とりわけ、複雑怪奇な精神構造を持ってしまった動物にとってはYesかNoかで決められる事など少ないのではないか。誰もがそう思っているはずだ。寧ろその中間に位置する結論が選ばれる事が望まれやすかろう。だからこそ「どちらでもいい」という答えも出るのではないか。
すまないが、ここでもう一度逆接。しかし、だ。現実に全ての中点を見極めようとする者は少ない。理由を挙げればきりがない。時間、努力、どれをとっても必要な要素が不足しすぎている。人もだ、中点を探すよりも強勢の側につくことに偏りがちだ。アベレージなどというものはディーラーの腕一つでどうとでもなるというのに。
そして最後に、一番必要な要素を挙げておこう。誰もが望みながら、現代のとある数値的な壁に阻まれてできないでいるらしい事を。
「共感或は共鳴、もしくはcompassion」
或は世界は変わってしまったのかもしれない。その基本構造から総て、私達が積み上げてきた物を裏切り、苛むレヴェルで。ならばその方向さえも糺していけばよいというのは、勝手な思い込みであろうか。
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己
HN:
我丞
性別:
非公開
職業:
人の話きく人
自己紹介:
人間27年生。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!
ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。
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