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感情論?

2006/08/07 (Mon)

例えばそれは「愛する」という感情。時に感傷、そして感謝。

先に言っておきたいのは、これは宗教の時間に教わるようなものでは無いという事。つまり、どこぞの宗教曰くの「●●の愛は至上」主義とかそういう話では無いということさ。ま、そう気負わずに読んでくれ。

特別講師なぞが招かれて話すとき、よく『好き』と『恋』と『愛』の序列みたいなものが話題に上がる。因みに彼ら曰く、好<恋<愛だそうだ。だが、字の上では心があるだの無いだのといった説明がつくけれど、現実問題人の感情は字の形で目の前に出てくるわけじゃない。


ならばどうしてそんな文字が出てくるのか。それも俺には答えられません昔の先達を訪ねてください宜しく。ただ俺の見解でいくなら、そんな文字は大雑把で適当なくくりでしかないのだと思う。
「このここちをいかにせん」
「我持同心」
「じゃあこう呼ぼうや」
こんな具合に便宜上の『アイ』が生まれのだろう。そして多くの善良な愛する市民アンケートのおかげで改良され、文字を使うようになって初めて心がくっついたりする。
そーだよねー。考えてみたら、人に話す時に逐一この胸の痛みをわかってくれたまえこうこうこーであーなのよとか言ってたら相手も参ってしまうし、本人だって疲れるだろうなぁうん。
けれどね、アイする小市民Aさんよ。その『愛』皆で大雑把にくくっただけだから、自分の考えてる『愛』とアナザー小市民Bの考えてる『愛』は違うかもしれないんだよ。


そう、誰かが考えている形と自分が考えている形は必ずしも一致しているとは限らない。むしろずれ込んだ上に地すべりとサーファーを配置したいぐらいだ。幾つかの山を巻き込んだ雪崩でもいいだろう。それくらい人の考えと自分の考えは違う、よって言葉に込める意味や序列が違うのは当然である。


一言『愛する』と言ったとして。隣人愛、家族愛、純愛、偏愛、恋愛。愛の形は様々だ。そしてたとえ神の愛だろうとなんだろうと、愛なんてもんは自分の中じゃ2番目以下だ!って言う奴もいるかもしれない。宗教が『愛』は一番と言おうと親がなんと言おうと槍が降ろうと氷雨が振ろうと霧雨が降ろうと、その人の中には『愛』とは呼べない気持ち、それも一番の気持ちがあるのだろう。


そうやって社会の『愛』やその他の感情たちは、人間の間にズレを生じながらも浮かんでいる。
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