思考社
いんふるえんす我丞の情報発信基地。
[25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35]
三鷹のジブリ美術館
祝、人生初!ジブリ美術館に行ってまいりましたー!
こんなに素敵な誕生日プレゼント、滅多に得られるもんじゃないですぜ!
一緒に初ジブリ美術館デートしてくれたプレゼント主に感謝感謝m(_ _)m
いやぁー、当方根っからのジブリファンでして!
どっちかというと立って歌って踊れるネズミより、トトロに育ててもらい、漫画版ナウシカに生き様を教えてもらったような人間なので、いつか、いつか行きたい!!と激しく思っていた次第でありました。
吉祥寺付近に越してきていながら、何故今まで行かなかったんでしょう。
一人で行くのがそんなに怖かったか自分め。ちきしょぅ、チキンだなぁ。
というのはまぁ置いとき。
三鷹の森ジブリ美術館。すごいよ。
美術館にネタも何もあるかい、と思うやもしれませんが、
未だ行ってないジブリファンの為にもネタバレは避けたいと思うほど、
すごいです。素敵です。感激します。
というわけで、結論先に言っときます。
「素直に行って下さい。そして感じて下さい。」
自分はいつも「美術館て、何かを感じられればそれでいいよー。作品解説とか分析とか難しいし」と常々思っていた人で。
本当はそういうあり方って正しくないのかもしれないんだけど、
ここへ来て、
「なんか感じる、綺麗、すごい、これ好き!」
ってのを本気でさせてくれるのがジブリ美術館、という感触を得ました。
ぐだぐだと、「宮崎駿のアニメには、これこれこういう背景があって、こういう主張が」とか言ってる方がいたら(それはそれで楽しいですけど)、美術館に来て子供に帰った気分で楽しんでほしいなぁと思いました。
本気で笑うこと。楽しいと感じること。
誰かが楽しもうとして作った何かを、素直に楽しいと受け止めれる。
転んだら泣いて、痛かったら痛いっていって、
わかんなかったら、わかんないって言える。
道に迷ったら、迷った先で考えればどーにかなる。
子供って言えば、それまでかもしれませんが。
大人になって、自分が着込んだものを見た時に、
衣類の分厚い層を脱ぎたい人は多いんじゃないですかね。
そういう事が、実は許されているのだと、
楽しみながら、周りの誰かと関わりながら気付ける場所が
もっともっと増えるといいなぁ、と思った『姫さんがデレ&初ジブリ美術館記念日』の6月14日、でした。
こんなに素敵な誕生日プレゼント、滅多に得られるもんじゃないですぜ!
一緒に初ジブリ美術館デートしてくれたプレゼント主に感謝感謝m(_ _)m
いやぁー、当方根っからのジブリファンでして!
どっちかというと立って歌って踊れるネズミより、トトロに育ててもらい、漫画版ナウシカに生き様を教えてもらったような人間なので、いつか、いつか行きたい!!と激しく思っていた次第でありました。
吉祥寺付近に越してきていながら、何故今まで行かなかったんでしょう。
一人で行くのがそんなに怖かったか自分め。ちきしょぅ、チキンだなぁ。
というのはまぁ置いとき。
三鷹の森ジブリ美術館。すごいよ。
美術館にネタも何もあるかい、と思うやもしれませんが、
未だ行ってないジブリファンの為にもネタバレは避けたいと思うほど、
すごいです。素敵です。感激します。
というわけで、結論先に言っときます。
「素直に行って下さい。そして感じて下さい。」
自分はいつも「美術館て、何かを感じられればそれでいいよー。作品解説とか分析とか難しいし」と常々思っていた人で。
本当はそういうあり方って正しくないのかもしれないんだけど、
ここへ来て、
「なんか感じる、綺麗、すごい、これ好き!」
ってのを本気でさせてくれるのがジブリ美術館、という感触を得ました。
ぐだぐだと、「宮崎駿のアニメには、これこれこういう背景があって、こういう主張が」とか言ってる方がいたら(それはそれで楽しいですけど)、美術館に来て子供に帰った気分で楽しんでほしいなぁと思いました。
本気で笑うこと。楽しいと感じること。
誰かが楽しもうとして作った何かを、素直に楽しいと受け止めれる。
転んだら泣いて、痛かったら痛いっていって、
わかんなかったら、わかんないって言える。
道に迷ったら、迷った先で考えればどーにかなる。
子供って言えば、それまでかもしれませんが。
大人になって、自分が着込んだものを見た時に、
衣類の分厚い層を脱ぎたい人は多いんじゃないですかね。
そういう事が、実は許されているのだと、
楽しみながら、周りの誰かと関わりながら気付ける場所が
もっともっと増えるといいなぁ、と思った『姫さんがデレ&初ジブリ美術館記念日』の6月14日、でした。
PR
【本】伝説の生まれる時 『天顕祭』
某用事で中野サンプラザとか、そのへんの魔窟に行きました(笑)
そうねぇ、アキバでゆーところの、電気会館とか、そんなかんじかしら。
あそこは縦幅が秋葉原以上にやばいもんがあると思います。
閉店5分前の古本屋(まんだらーけでしたかね・・・)
店頭105円棚に
まさかの本発見。
『天顕祭』
上橋菜穂子さんがお勧めという事で前から気になってはいたんですが、買う機会を逸していたので、「うっそぉ!?この厚さここにあったらいかんやろ!」
と、咄嗟に、手が、動いてしまいまして。
まぁでも、俺がこの本を一番初めに気にした理由は、“目”でした。
目力っていうでしょう、眼力とか。
芯のある強さなんですよ。
少年漫画とかのあのギンギンしたかんじの「やったるぜ〜!」て目もいいんですけどね?
なんというか、「覚悟を決めながらも、弱さを押し包んで前進する」瞳、という感じ。
千と千尋の時もどなたかが言ってましたが、生きる力って、表情、特に目に出る気がするんですよ。その人の強さ、優しさ、弱さ。そういったものが素直に出ちゃう。
よく、心理瞳孔信号を無意識に読み取って・・・とか言いますけど、別にそんな解説しなくても、やっぱ真っ直ぐに向き合ってみるとわかるんですよねー。それこそ無意識で。(笑)
というわけで、
主人公、女も男も強い人です。
世界観もしっかりしてるのがさらに良し。
上橋の物語には「土臭さ」があるとか言うけど、たぶんそれです。
綺麗事では成り立たない生活が、社会が、世界がここにあります。
この話のストーリーの核となるのは、とある「祭」と「人身御供」と「汗臭い鳶職」。
民俗学とか柳田とか好きな人におすすめ。
伝承・伝説が生まれる、神様が生まれる時って、その下地になった人間がたくさんいると思うんだけど、伝えられていくうちに、少しずつ歪んでいくんでしょうねぇ。
あと、ルームメイトがこの漫画に、というか男主人公に惚れたwww
深夜2時まで読んでた理由はそこか?w
そうねぇ、アキバでゆーところの、電気会館とか、そんなかんじかしら。
あそこは縦幅が秋葉原以上にやばいもんがあると思います。
閉店5分前の古本屋(まんだらーけでしたかね・・・)
店頭105円棚に
まさかの本発見。
『天顕祭』
上橋菜穂子さんがお勧めという事で前から気になってはいたんですが、買う機会を逸していたので、「うっそぉ!?この厚さここにあったらいかんやろ!」
と、咄嗟に、手が、動いてしまいまして。
まぁでも、俺がこの本を一番初めに気にした理由は、“目”でした。
目力っていうでしょう、眼力とか。
芯のある強さなんですよ。
少年漫画とかのあのギンギンしたかんじの「やったるぜ〜!」て目もいいんですけどね?
なんというか、「覚悟を決めながらも、弱さを押し包んで前進する」瞳、という感じ。
千と千尋の時もどなたかが言ってましたが、生きる力って、表情、特に目に出る気がするんですよ。その人の強さ、優しさ、弱さ。そういったものが素直に出ちゃう。
よく、心理瞳孔信号を無意識に読み取って・・・とか言いますけど、別にそんな解説しなくても、やっぱ真っ直ぐに向き合ってみるとわかるんですよねー。それこそ無意識で。(笑)
というわけで、
主人公、女も男も強い人です。
世界観もしっかりしてるのがさらに良し。
上橋の物語には「土臭さ」があるとか言うけど、たぶんそれです。
綺麗事では成り立たない生活が、社会が、世界がここにあります。
この話のストーリーの核となるのは、とある「祭」と「人身御供」と「汗臭い鳶職」。
民俗学とか柳田とか好きな人におすすめ。
伝承・伝説が生まれる、神様が生まれる時って、その下地になった人間がたくさんいると思うんだけど、伝えられていくうちに、少しずつ歪んでいくんでしょうねぇ。
あと、ルームメイトがこの漫画に、というか男主人公に惚れたwww
深夜2時まで読んでた理由はそこか?w
笑顔の練習
赤ちゃんというのは、何にもしなくても笑顔に見える顔をしている。
なんとお得な生き物か。
そして、自分にもそんな時期があったのだという恐るべき事実。
あんなにふにふにして可愛らしい時期が私にあったかどうかなど、
私は知らない。断じて知らないぞ!
とかいう回想はおいといて。
私の顔は歳をとるにつれ、仏頂面になっていく気がしてならない。
例え周囲の女の子達がクールビューティーだと噂しようと、
いい笑顔ひとつ作るのに内心汗だらだらの自分では、困るのだ。
別にお見合い写真だの額装用写真を撮ろうというのではない。
だが、それでも、写真を撮る機会もあることだし、死後に仏頂面ばかりのこして“生き仏”だなどとは言われたくない。
写真に写る時ぐらい「いい顔」して残りたい。
で、【笑顔の練習】をする事にした。
少なくともあと2週間は続ける。
表情筋を普段使わないだけに、顔の筋肉が凝り固まる・・・いや、そもそも表情筋が付いていないんじゃないか、と。それぐらい、上の歯だけ4本だして口角上げて、なんて難しい。
しかも、練習とはいっても「いち、に」を繰り返し言ったり、眉毛を上げたりといった適当なものなのだが、一日目にして既に眼精疲労ならぬ顔面疲労なのである。
しかし、楽しい。
幼児が大人になっていく時に自分の体をコントロールする有能感を得ることが重要だとか何とか言うのだが、「今、自分が素敵な笑顔を作ることが出来るようになっていっている」という事実が何ともこそばゆい。
童心に戻ったように鏡を見て百面相をしている様子など、誰にも見せられた物ではないが、しかし、やってる本人は非常に楽しい。
きっと、歩き始めの赤ちゃんも、こんな気持ちなんだろう。
なんとお得な生き物か。
そして、自分にもそんな時期があったのだという恐るべき事実。
あんなにふにふにして可愛らしい時期が私にあったかどうかなど、
私は知らない。断じて知らないぞ!
とかいう回想はおいといて。
私の顔は歳をとるにつれ、仏頂面になっていく気がしてならない。
例え周囲の女の子達がクールビューティーだと噂しようと、
いい笑顔ひとつ作るのに内心汗だらだらの自分では、困るのだ。
別にお見合い写真だの額装用写真を撮ろうというのではない。
だが、それでも、写真を撮る機会もあることだし、死後に仏頂面ばかりのこして“生き仏”だなどとは言われたくない。
写真に写る時ぐらい「いい顔」して残りたい。
で、【笑顔の練習】をする事にした。
少なくともあと2週間は続ける。
表情筋を普段使わないだけに、顔の筋肉が凝り固まる・・・いや、そもそも表情筋が付いていないんじゃないか、と。それぐらい、上の歯だけ4本だして口角上げて、なんて難しい。
しかも、練習とはいっても「いち、に」を繰り返し言ったり、眉毛を上げたりといった適当なものなのだが、一日目にして既に眼精疲労ならぬ顔面疲労なのである。
しかし、楽しい。
幼児が大人になっていく時に自分の体をコントロールする有能感を得ることが重要だとか何とか言うのだが、「今、自分が素敵な笑顔を作ることが出来るようになっていっている」という事実が何ともこそばゆい。
童心に戻ったように鏡を見て百面相をしている様子など、誰にも見せられた物ではないが、しかし、やってる本人は非常に楽しい。
きっと、歩き始めの赤ちゃんも、こんな気持ちなんだろう。
なぜ、芸術を大切にするのか
今日は都内大学某所にて、色々と芸術を鑑賞してきた。
まぁ、あの場所について一番初めに何を言うって、
「なぜこれが大学の門?」
なのだが、それはおいとき。
音楽や、絵、歌。
そういったものが古くから人間に受け継がれ、多くのものが関わろうとするのは、たぶん、「芸術がストレートに人の心を揺さぶる表現だから」ではなかろうか。
「無駄なものが好きなんだよ」等々、その他の説をお持ちの方がいたら、まずは好きな音楽を聞いてみてほしい。
いい?音楽であって、理解可能な言語のJPOPじゃ駄目だよ?
好きなキャラソンも後で聞いてくれ。
もし、特に思い当たるCDもMP3も動画もねーよ、ということであれば、
ヴォカリーズという分野の音楽を当たってほしい。
これは人間の声だが、特に言語は使わない。アディエマスというグループを知っている人ならご存じかと思う。”人間の音”が主体になっている音楽、それがヴォカリーズ。
さて、ぐだぐだ言ってる間に聞き終わった人もいるかもしれんね。
2曲目でも2周目でもいい。どこまでも聞いててくれ。その中で、何かこう、魅せられるというのかな、”音と一緒くたに陶酔する”ような感じがしてきたりしないか?
音の持つ感情が自分と一致する、音に支配される心地よさ
そんなものが出てくる事もあるかもしれない。
あるいは、音の熱気で自分も熱くなってくる。そんな体感覚。
私は、今日の器楽の演奏を聞いている中で、音楽に感情を乗っ取られてしまうような錯覚を覚えてね。しかしこの一体感がまた気持ちいいんだよ。それで今こんな事を書いているわけなんだが、
その状態ってつまり、「奏者が伝えたい事がばっちり観客に伝わった」「そして観客が身体や精神のありようによって答えた」状態じゃないかと思う。音楽という一方的な情報が、実はコミュニケーションの手段だったというわけさ。
この、コミュニケーションという言葉、私は、こいつは結構大事な気がしていてね。だってほら、人間てコミュニケーションしたくて言葉なんて作って、ルール決めまでして誰かさんと喋ってるわけだろう?
例を挙げればきりがないけど、「誰かに、何かを、伝えたい」って欲求は確かにあると思うんだ。
「じゃあ言葉で言えば良いじゃないの」って?うん。そうだね。まったくもってそうだ。言葉で形容詞副詞熟語使って伝えた方が、「私が感じたこと」を共通の、認識されたルール内で伝え合うにはいいかもしれないよね。その方がより詳しいような感じもするし。何より言語化されている。
でも、言葉にしても、「いくら並べても伝わらない言葉」ってのと、「たった2言だけど、ぐさっとくる言葉」ってのあるじゃない?(別に告白の台詞じゃないんだからねー)
そう。言葉にすればいいってもんではなくて。
寧ろ、言葉じゃない方が伝わってんのかもしれない。
だから、芸術や音楽がどこまでもどこまでも人間と共にあるんではないか。
そんな風に思った今日の午後。
まぁ、あの場所について一番初めに何を言うって、
「なぜこれが大学の門?」
なのだが、それはおいとき。
音楽や、絵、歌。
そういったものが古くから人間に受け継がれ、多くのものが関わろうとするのは、たぶん、「芸術がストレートに人の心を揺さぶる表現だから」ではなかろうか。
「無駄なものが好きなんだよ」等々、その他の説をお持ちの方がいたら、まずは好きな音楽を聞いてみてほしい。
いい?音楽であって、理解可能な言語のJPOPじゃ駄目だよ?
好きなキャラソンも後で聞いてくれ。
もし、特に思い当たるCDもMP3も動画もねーよ、ということであれば、
ヴォカリーズという分野の音楽を当たってほしい。
これは人間の声だが、特に言語は使わない。アディエマスというグループを知っている人ならご存じかと思う。”人間の音”が主体になっている音楽、それがヴォカリーズ。
さて、ぐだぐだ言ってる間に聞き終わった人もいるかもしれんね。
2曲目でも2周目でもいい。どこまでも聞いててくれ。その中で、何かこう、魅せられるというのかな、”音と一緒くたに陶酔する”ような感じがしてきたりしないか?
音の持つ感情が自分と一致する、音に支配される心地よさ
そんなものが出てくる事もあるかもしれない。
あるいは、音の熱気で自分も熱くなってくる。そんな体感覚。
私は、今日の器楽の演奏を聞いている中で、音楽に感情を乗っ取られてしまうような錯覚を覚えてね。しかしこの一体感がまた気持ちいいんだよ。それで今こんな事を書いているわけなんだが、
その状態ってつまり、「奏者が伝えたい事がばっちり観客に伝わった」「そして観客が身体や精神のありようによって答えた」状態じゃないかと思う。音楽という一方的な情報が、実はコミュニケーションの手段だったというわけさ。
この、コミュニケーションという言葉、私は、こいつは結構大事な気がしていてね。だってほら、人間てコミュニケーションしたくて言葉なんて作って、ルール決めまでして誰かさんと喋ってるわけだろう?
例を挙げればきりがないけど、「誰かに、何かを、伝えたい」って欲求は確かにあると思うんだ。
「じゃあ言葉で言えば良いじゃないの」って?うん。そうだね。まったくもってそうだ。言葉で形容詞副詞熟語使って伝えた方が、「私が感じたこと」を共通の、認識されたルール内で伝え合うにはいいかもしれないよね。その方がより詳しいような感じもするし。何より言語化されている。
でも、言葉にしても、「いくら並べても伝わらない言葉」ってのと、「たった2言だけど、ぐさっとくる言葉」ってのあるじゃない?(別に告白の台詞じゃないんだからねー)
そう。言葉にすればいいってもんではなくて。
寧ろ、言葉じゃない方が伝わってんのかもしれない。
だから、芸術や音楽がどこまでもどこまでも人間と共にあるんではないか。
そんな風に思った今日の午後。
境界線
境界線を引いたことはあるかい?
あの、大人と子供の間に都合よく引いたり、
世界と自分を区切るために置いたり、
誰かと誰かの見えない縁の間に描くやつさ。
もし君が子供のころにチョークでコンクリを線だらけにした事があるなら、その感覚を思い出してくれ。
君の足もとに引かれた無数の線、そいつを踏まないように、ここのマスには入らないようにと気をつけて道の向こう側に渡る。そんな遊びがあったとしよう。
当然、線が増えれば通り過ぎるのは難しくなる。
身動きが取れなくなり、一歩間違えればデッドゾーンに突っ込んで、子供なりに決めた絶対ルールを犯してしまう。
・・・・・・さて、
遊びは一旦そこで収束しなくてはならない。
だってほら、ルールは破っちゃいけないんだよ?
ルールを破ったらどうするんだっけ?
と、そこで大抵の子供は、自分がルールを破った事を合理化する。
特別な場合だと言ってみたり、ルールは今変わったと言ってみたり。
不思議な事に、そこに「ルールを破ったら罰がある」という、
大人の常套句はめったに見られないんだな。
話は、原点に戻る。
線を引いて分けるという行為は、左と右へ、上と下へ、多数と少数へ、正しさと不正解に物事を振り分ける。
そうして区切られた世界には、どうしてだか一方には賞があり、一方には罰がある。
そして私は、グレイゾーンは、認められない傾向があると感じている。
人はいつの間に、2元論で物を語れるようになるのだろう。
あの、大人と子供の間に都合よく引いたり、
世界と自分を区切るために置いたり、
誰かと誰かの見えない縁の間に描くやつさ。
もし君が子供のころにチョークでコンクリを線だらけにした事があるなら、その感覚を思い出してくれ。
君の足もとに引かれた無数の線、そいつを踏まないように、ここのマスには入らないようにと気をつけて道の向こう側に渡る。そんな遊びがあったとしよう。
当然、線が増えれば通り過ぎるのは難しくなる。
身動きが取れなくなり、一歩間違えればデッドゾーンに突っ込んで、子供なりに決めた絶対ルールを犯してしまう。
・・・・・・さて、
遊びは一旦そこで収束しなくてはならない。
だってほら、ルールは破っちゃいけないんだよ?
ルールを破ったらどうするんだっけ?
と、そこで大抵の子供は、自分がルールを破った事を合理化する。
特別な場合だと言ってみたり、ルールは今変わったと言ってみたり。
不思議な事に、そこに「ルールを破ったら罰がある」という、
大人の常套句はめったに見られないんだな。
話は、原点に戻る。
線を引いて分けるという行為は、左と右へ、上と下へ、多数と少数へ、正しさと不正解に物事を振り分ける。
そうして区切られた世界には、どうしてだか一方には賞があり、一方には罰がある。
そして私は、グレイゾーンは、認められない傾向があると感じている。
人はいつの間に、2元論で物を語れるようになるのだろう。
ブログ内検索
暦
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
己
HN:
我丞
性別:
非公開
職業:
人の話きく人
自己紹介:
人間27年生。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!
ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!
ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。
項
新
(10/30)
(08/02)
(07/28)
(07/26)
(04/16)
カウンター
Tamariba