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愛することについてうだうだ1

2008/12/17 (Wed)


『愛されたくて吠えて
 愛されることに怯えて』


まったくもってその通りだ。
愛されたいんだ。愛の定義の示すところを知らず、それでも、僕らは愛されることを望む。
自らのすべてを受け入れて、好きになってくれる誰かを、僕らは心待ちにしている。

誰かに必要として欲しくて、その誰かが、自分の好きな誰かであってほしくて。
そうして一旦必要とされたならば、今度はその人を自分の元に繋ぎとめておきたくなる。
その人は自分が好きでいさせてくれる人だから。
自分の我儘を聞いてくれる人だから。



恋をするとはなんと我儘であることか。
傲慢であることか。
相手を所有し、相手に所有される。
その相互のパーセンテージの釣り合いは等しくなければ一方的なものとなり、恋とは呼ばれずに終わる。

あるいは、まったくもって相手に伝えられず、例え100%の声をふりしぼって叫んでも、相手から等質等量の感情を得られなくば、片恋と呼ばれ露と消えるか、狂って咲くか。

しかし、本当に等質等量でなければ恋とはならぬか。
はたまた、それは愛であるのだろうか。

否。そもそも、互いが互いに求めるモノからして違う。そのため、相手に求められる感情そして行動は別種のものとなる。ただ、相手を深く洞察し、理解しないかぎり、人間という生き物は、まず「オウム返し」に同じ行動によって返そうとする。よほど超越した人間でないかぎり、その自動的反射から逃れることはできない。あるいは、行動の経路そのものが違うか。いずれにせよ、一般とされる人間、そして“ほぼ同量”の相手に相対する欲求を持つ人間は、相手にされた行動をそのまま反射してしまう。

反射、というのには語弊があろうか。否、これでよかろう。

一説に、「人間は自分と対極にいる人間を伴侶とする」というものがある。これの原理となっているのは相補性であり、確かに、と思わせるものがある。反射、鏡写しであるならば、サイズは同じ、外見的形質は同じでありながら、やっている事は同じと見せかけてその実、逆を硝子一枚向こうで行うことができる。

自分でありながら、自分ではない、
自らの欠損を埋めるものを、人間は欲する。
しかし、それ以上をも同時に求め、彷徨う。

では、それ以上のもの、つまり自分を併呑した自らの片割れが、自らのキャパを飲み込む形で、さながら曼荼羅の白が黒を包むようにして、曼荼羅の勾玉の部分にしか満たない自分の前に立ち現れたら。
あるいはそれは、恐怖でしかないのかもしれない。
ゆえに、完璧なるものは忌み嫌われ、製造ラインから遠ざけられる。


以上の理論は、対人関係上利用すべきか否か。
自らと同じ行動をとってほしければ、このような理論は告げずに置くべきだろう。ただし、相手の自由意思、そして自由意思を見つめさせ、その者自ら導き出した行動を尊重したいのであれば、敢えてここで典型を示し、一般的行動原則に従わぬよう教唆するも一手。
と、私は思う。

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