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2024/05/12 (Sun)

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静かなる故郷

2009/11/14 (Sat)

久しぶりに故郷の土地に帰ってみると、自分が随分、東京に慣れてしまったことがわかる。それはもう、いっそ違和感と呼べるほどの静かさが私の故郷にはある・・・気がするのだ。

時間を少し戻そう。
夏休み中に、私はよく母に「前の方がきらきらしていた」と言われ、(・・・なんだそれは)と思っていた。それぐらい何もせずに感じる事に徹して、穏やかな隠居生活を送っていた。
いい言葉に置き換えると、これを人は蓄電と言います。これはこれで、大事。

その時は、前の自分=東京で忙しくしている自分のだと思ったので、(忙殺されていたあの状態には戻りたかないなぁ)という感想を持ったのだが、

一旦東京に戻り、

良い仲間に刺激される日々があると、

なにやら、故郷の安堵に埋もれた日々が馴染まなくなっているのだから、不思議だ。

はて、私は東京の色に染まっちまったのか?
と考えたりもするのだが、しかしよく考えてみると、俺は中学生の時から過激な奴だったなぁ・・・(笑)という記憶に思い当たる。
決して東京暮らしのせいばかりではないのだと。

血に根拠を求めるつもりはないが、そういえば、父も母も実家はこの地にはない。そして二人とも首都の風を受けて生きた事のある人間だ。

また、静岡でお世話になってきた人生の恩師達は、今は丸い顔してるが、時々東京の片鱗をキラリとのぞかせてはニヤリと笑う。かっちょええ。(訳:カッコイイ

そんなものも、私に影響を与えてきたのだろう。

ただ、ここで誤解して欲しくないのは
東京=大量消費文明・人間を物扱い
静岡=ゆっくりとした時間・人情味がある
構図では、全然ない。ってこと。

今までは俺もこう↑↑思ってたさ。
でもねー・・・。
東京の速度に流されず、自分のスピードを掴み、同じ希望を持って動いている仲間を見つけると、かえって、適度な刺激が得られる場所として使えるようになったんだ。
要するに、確かに↑の構図で言ってる事は間違ってないけど、それだけでもないって話。

で、今回帰郷直後に、異常な静けさのお堀端をバス停へと歩いてみると、逆に静岡の静かさってのは停滞とか、諦めによるものなんじゃないかとも考えられてね。

家へ帰るためのバス停に静かに立っていたら、空間に静かに飲まれて行くような心持がしてさ。
ふと気づいて見回すと、目に障る存在や色がなく渋い色に囲まれて、良くも悪くも耳に障る音がなく。

中学生の頃に思索ばかりしていたのは、決して自分が根暗な哲学馬鹿だったからではなく、この朝の登下校やベランダの静けさが修行には持ってこいだったから、身体が勝手にやっちまったんだろうな。

ともあれ、
目立ったものが無いのは、よくもあり、わるくもある。

例えば。
埋没して、周囲に溶け込んで生きられるのは一つのスキルだと、最近の小学生は思っているようだ。そうでないと差異に目をつけられていじめられてしまうから、と。
これは一種の和であるから、とりあえず同和の“よいこと”としよう。(これはこれで無理あるけど)

それに対して、セクシャルマイノリティとして生きる事、これはむしろ差異を認めたうえで共生を望むやり方だ。色々な要素を包括して共存する、これは同和にはできない芸当、同和の“わるいこと”だ。同和は違和をはじいてしまうからね。

唐突に“よいこと”、“わるいこと”と2極を上げたが、
人間白か黒かでは、生きては行かれない。
2色間で言うならグレイであり、RGBなんぞに位置を見ようものなら、3つの軸どころかホログラムにラメなんぞ入れたいほど、
それほどに人間は、個々の中に、様々なモノを持っている。
マイノリティの自覚と、自分の中にあるカオスさを認めた時から、こう考える事ができるようになった。
(まぁ、こんな極論振り回すようになったのは最近の話だと思うが)

だから静岡の、人を呑んで佇む静寂は空恐ろしい。
同じ密度と曇りになろうよと無言で誘ってくる、あの穏やかさは魅力でもあるが、同時に、自分が失われてしまうとも感じる。
しかしきっと、東京に戻ったらあの喧噪と梢の音がうるさいと感じるだろう。時間や人混み、セールに支配された街中を愛おしいとは決して言えない。

東京に染まったか、静岡の静寂に呑まれきったか、そのどちらか一方とは言えない自分が居るのだ。

ただ、今は、
東京で苛烈、あるいは華烈に生きる楽しさを知った私には、今現在の静岡はあまりに穏やかな隠遁の地であり、死にゆるゆると向かう諦念の心がへばりついているように見える。

決して、それとて悪くは無い。
あるいは、云十年後に摩耗した私がたどり着くには良い土地だ。
ただ、今ではない。

実家に帰ってくる途中で気付くには、あまりに配慮のない気付きだったかもしれない。
それでも、今気付けて良かったとも思う。

皆境目に立っている。
それぞれの道を行く。

さて、俺の道はどうなることか。
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