思考社
いんふるえんす我丞の情報発信基地。
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浮遊する思考
人は、ただ進む事ばかりを考えて生きてきたのだろうか。
いや、何もここで人類にまで話のフロシキを広げる必要はないね。
そうだなぁ。一応、個人からスタートしてみよう。
【進む、進歩する、進化する】
これらの言葉は、みな発展しているその動きを示す言葉だ。
前へ前へと“進む”。人体で言うならば顔面の向いている方へと近づいていく。そのことを“進む”という。
言葉遊びで、「前へ前へとバックした」という文章を持つ詩がある。
あれはたいそう面白い詩なので、まぁそいつは今度紹介するとしてだね、人体には明らかに前後があるということになっている。というのが、この文言から受ける違和感でわかると思う。
前はバックするもんじゃねぇ、進むもの、向かい合うものだ。とかね。
人体に前後ろ、対応する動きである進む後ずさるがあるのはまだわかりやすい。
次に概念的な“進む”を考える。
例えば、だ。
100のタスク(やらなきゃならないこと、と言い換えても良い)があるとしよう。
それが、残り90、残り50となって、ゼロまでいけば、「仕事が進んだ」ことになる。ああ、これもまた概念にはなりきっていないか。
とすると、例を変えねばなるまい。
しかしだねぇ、俺には概念でしかない“進む”がわからんのよ。
概念における“進む”
これには何ぞ問題があるように思う。
(と、感じているこれも“進んで”いるのかどうか怪しい)
そもそも、進んでいるのか。
という問題が。
そっちは前か?お前の鼻面が向いている方向か?
行きたい方向が、わかっているか?
「前も後ろも分からない」この状況を感じたければ、太平洋のど真ん中で、視界の端から端まで海状態の場所を探してぽちゃっと浮いてみるに限る。
道しるべもなく、雨で太陽の位置がわからん、右手はちょっと冷たい、てことはこっちが南極か?と感じるような状況がいい。
もしこの時、帰りつくべき国がわかっているのなら、まだそいつはマシである。
さらなる問題は、
どこへ向かうべきかという指針が何もない状況だ。
この時、浮遊者は自らのカンを頼りに、クソ広い海原を行くことになるだけでなく、その前だか中だか知らないが、兎に角、自分がどこに向かいたいのかを決めなくてはならないだろう。
あるいは、
どこに向かうかは波任せとするか。
「命がかかっているのに適当な事出来るか!!」
と即答できるのなら、君には行き着くべき場所が、もうすでに見えているのだろう。
それが、君の“前”で、“進む”べき場所だ。
遠まわりはするかもしれないが、できるだけ真っ直ぐ行くべし。まず太平洋周りの国のどっかには漂着可能だ。
では、波任せもいいんじゃないかと思った君、
とりあえず、俺と気が合いそうだね(笑)
“前”を定めずに“行く”。
疲れたら丸太か何かにつかまって休む。
自分はどこにいるのか、実はよくわかっていない。
ただ、自分が為すことだけが把握される。
そこに正しさはない。方位磁針付きの豪華客船に乗っている人が通りかかったらなんて言うだろうか。
道を外れているというのなら、すなわち「外道」であろうし、
行くあてがないというのなら、「迷子」みたいなものか。
いずれにしても、誰もが予想だにしない航路をふらふらと彷徨う事だろう。
もしかしたら、ひょんなことで宝箱のありかを見つけてしまうかも。
それは、宝箱に向かって進んでいたとは言い難い。
だって知らずにそこに行き着いたわけだからね。
けれど、地図に載っていない宝箱のありかを探すのに、正しい航路があるのだろうか?
“進む”のではなく、バックしたほうが近道であるのかもしれない。
それはむしろ、“進んだ”といえるのではないか?
ではその次に“前”と呼ぶのは?どこだ?
お前の“前”はどこにある?
・・・なんてことを考えているうちに俺の脳味噌が浮遊していってしまったようだ。どこぞの岸辺に漂着することを期待しつつ、今日はとりあえず寝ることにしよう。
いや、何もここで人類にまで話のフロシキを広げる必要はないね。
そうだなぁ。一応、個人からスタートしてみよう。
【進む、進歩する、進化する】
これらの言葉は、みな発展しているその動きを示す言葉だ。
前へ前へと“進む”。人体で言うならば顔面の向いている方へと近づいていく。そのことを“進む”という。
言葉遊びで、「前へ前へとバックした」という文章を持つ詩がある。
あれはたいそう面白い詩なので、まぁそいつは今度紹介するとしてだね、人体には明らかに前後があるということになっている。というのが、この文言から受ける違和感でわかると思う。
前はバックするもんじゃねぇ、進むもの、向かい合うものだ。とかね。
人体に前後ろ、対応する動きである進む後ずさるがあるのはまだわかりやすい。
次に概念的な“進む”を考える。
例えば、だ。
100のタスク(やらなきゃならないこと、と言い換えても良い)があるとしよう。
それが、残り90、残り50となって、ゼロまでいけば、「仕事が進んだ」ことになる。ああ、これもまた概念にはなりきっていないか。
とすると、例を変えねばなるまい。
しかしだねぇ、俺には概念でしかない“進む”がわからんのよ。
概念における“進む”
これには何ぞ問題があるように思う。
(と、感じているこれも“進んで”いるのかどうか怪しい)
そもそも、進んでいるのか。
という問題が。
そっちは前か?お前の鼻面が向いている方向か?
行きたい方向が、わかっているか?
「前も後ろも分からない」この状況を感じたければ、太平洋のど真ん中で、視界の端から端まで海状態の場所を探してぽちゃっと浮いてみるに限る。
道しるべもなく、雨で太陽の位置がわからん、右手はちょっと冷たい、てことはこっちが南極か?と感じるような状況がいい。
もしこの時、帰りつくべき国がわかっているのなら、まだそいつはマシである。
さらなる問題は、
どこへ向かうべきかという指針が何もない状況だ。
この時、浮遊者は自らのカンを頼りに、クソ広い海原を行くことになるだけでなく、その前だか中だか知らないが、兎に角、自分がどこに向かいたいのかを決めなくてはならないだろう。
あるいは、
どこに向かうかは波任せとするか。
「命がかかっているのに適当な事出来るか!!」
と即答できるのなら、君には行き着くべき場所が、もうすでに見えているのだろう。
それが、君の“前”で、“進む”べき場所だ。
遠まわりはするかもしれないが、できるだけ真っ直ぐ行くべし。まず太平洋周りの国のどっかには漂着可能だ。
では、波任せもいいんじゃないかと思った君、
とりあえず、俺と気が合いそうだね(笑)
“前”を定めずに“行く”。
疲れたら丸太か何かにつかまって休む。
自分はどこにいるのか、実はよくわかっていない。
ただ、自分が為すことだけが把握される。
そこに正しさはない。方位磁針付きの豪華客船に乗っている人が通りかかったらなんて言うだろうか。
道を外れているというのなら、すなわち「外道」であろうし、
行くあてがないというのなら、「迷子」みたいなものか。
いずれにしても、誰もが予想だにしない航路をふらふらと彷徨う事だろう。
もしかしたら、ひょんなことで宝箱のありかを見つけてしまうかも。
それは、宝箱に向かって進んでいたとは言い難い。
だって知らずにそこに行き着いたわけだからね。
けれど、地図に載っていない宝箱のありかを探すのに、正しい航路があるのだろうか?
“進む”のではなく、バックしたほうが近道であるのかもしれない。
それはむしろ、“進んだ”といえるのではないか?
ではその次に“前”と呼ぶのは?どこだ?
お前の“前”はどこにある?
・・・なんてことを考えているうちに俺の脳味噌が浮遊していってしまったようだ。どこぞの岸辺に漂着することを期待しつつ、今日はとりあえず寝ることにしよう。
日のないところに影は無い
やあやあお早う。夜10時をまわるとさすがに地元でも激寒い現実をうっかり体感しちゃった俺様がお届けします。(どこのVIPかと)
夜になると、とても寒い。それはまぁいい。
で、夜と言うのは他にも効力を持つ。
たとえば、だね、ハイテンションになったり意味不明な文言を口走ったり、有る意味酒でも飲んだの君?と聞きたくなるようなぶっこわれぷりを展開する。
人によってそれぞれだけど、この中でも面倒な壊れ方があってね。
「露悪的になる」ってやつ。
自分の嫌なところ人に見せちゃって、それで何がしたいんでしょうねぇ?酒まみれの愚痴のほうが余程聞いている側が楽なのに、返す言葉に困るじゃありませんか。人も自分も傷つくことこの上ない。
というわけで、俺の今年の目標は「露悪的にならない」事です。
あと、そうだなぁ、もうちょい自分を愛せるようになりたいかなぁ。
受身で愛を待ってる人間に向かって「愛されることを待ってる奴に興味は無いね!」と、啖呵切ってみたいんで。
(相も変わらず変な方向に強くなりたがってる大馬鹿者ですが、今年も見かけたらぼこすか叩いてやってください。)
夜になると、とても寒い。それはまぁいい。
で、夜と言うのは他にも効力を持つ。
たとえば、だね、ハイテンションになったり意味不明な文言を口走ったり、有る意味酒でも飲んだの君?と聞きたくなるようなぶっこわれぷりを展開する。
人によってそれぞれだけど、この中でも面倒な壊れ方があってね。
「露悪的になる」ってやつ。
自分の嫌なところ人に見せちゃって、それで何がしたいんでしょうねぇ?酒まみれの愚痴のほうが余程聞いている側が楽なのに、返す言葉に困るじゃありませんか。人も自分も傷つくことこの上ない。
というわけで、俺の今年の目標は「露悪的にならない」事です。
あと、そうだなぁ、もうちょい自分を愛せるようになりたいかなぁ。
受身で愛を待ってる人間に向かって「愛されることを待ってる奴に興味は無いね!」と、啖呵切ってみたいんで。
(相も変わらず変な方向に強くなりたがってる大馬鹿者ですが、今年も見かけたらぼこすか叩いてやってください。)
愛することについてうだうだ2
今日のサブタイトル:結婚
会社の終身雇用って、あれ、一種の"結婚"だと思うんだよね。
それにしても、しかしまぁ、何故に結婚なのだろうね。
結婚の制度っていつからあるんだろうとか、モノガミー制になったのいつだろう
とか考えるけど、
とりあえず今は、「何故、行き着く先は結婚」なのか、考えてみたい。
そもそも結婚て何ぞ?
結婚する、ということは、法律上で家族になるってことだ。
家族になると色々な特典がついてくる。
例えば、扶養控除だとか、遺産相続、緊急時に病院での代理意思決定などなど。
でもまぁ、そういうプラスアルファの部分ってのは結局、社会が後付けした部分であってさ、
根本的に何故"結婚して"家族を作るのか。
それってわからん。
エジプトの神話なんかにはもう既に結婚というか、妻と夫が二人で仲良くしやがれよ的要素があるんで、たぶん、B.C.には既にあったんだろう。
なんでそんなもんが必要だったんだろう。
法律で縛って、宗教で縛って。
人に与えられた命題が「産めよ増やせよ」なら、効率悪いと思わないか?
下手に進化しすぎたおかげで1人産むのにも時間がかかるっつーのによ。
さーて、疑問ばかりが悶々としちゃうねぇ。
例として、いくつかのケースを考えてみようか。
好き合っている男と女が居たとしよう。
言うまでも無く、法的に何の問題も無く結婚可能。
基本的に、離婚でもしない限り一緒に暮らす。
好き合っている男と男が居たとしよう。
ここは日本、同性婚は認められていない。
彼らは形だけでも、と、
結婚式を挙げてくれる教会を求めてアメリカへ。
神様の前で“死が二人を分かつまで”と、誓いを立てる。
好き合っている女と女が居たとしよう。
ここは日本、法律上の家族になるために、
彼女らは片方が片方を養子として登録することにした。
そして多々問題はあれど、
養子縁組の取り消しなんて外聞が悪いことは出来ない。
家族として支えあっていこうと、ある種の諦め。
他にも、IS、性同一性障害などなど、性のグラデーションの中にいろんな性が存在するが、それはまた今度。
上の3組に関して言える事は、
"永遠"という契約、それが
個を超えた何かによって成される。と、いうこと。
ノーマルにしろゲイにしろ、結局は
法なり宗教なりの結婚をゴールとしている。
自分達の手では「どうしようもない」決め事によって、
二人の決意を後押ししてもらうというわけだ。
まぁ、ここまでをまとめるなら、
結婚とは、人間の意志の弱さをサポートするもの。
ってところかねぇ。
人間が社会的な生物だからこそ、意思の外部委託に似たことが出来るんじゃないか。と、ちょいちょい思ってみたり。
法なり、宗教なりが決めたルールにのっとって“結婚”出来るんなら、ここまでうだうだ言わねぇよ。
よく、決め付けんなって言われるけど、未来を考える人間にとって、予測できない事はすっげぇ怖い。
それは、未来というものの予測材料が「今」だからでもある。
「今」の条件、つまり自分の心や、他人に受け入れてもらってる度合い、なんもかんも未来に当てはめてみて、そうしてふと気づくんだ。
俺は、結婚という安心できる枠組みに入れそうにない。
どうする?俺の未来は一人きりの可能性が高い。
よく、決め付けんなって言われるけど、
未来を考える人間にとって、これは恐怖だ。
君は、どうやって「今」だけ見てるんだい?
どうやったら、未来の自分を受け入れてくれる人が居ると、信じて安堵できる?
自分の心より制度を優先すればつらいと感じなくなるのかい?
そうだね、文章見てわかるとおり無限ループだ。
際限の無いこと限が無い。
だから、俺は、俺と結婚したい。
自分の事をよく知っていて、特に、自分が欲しいものをよぉく知っている。
こんなに俺のことを理解してる人間が他にいるかっての。
しかしそれは無理な話だ。
というのも、「永遠に別れることが出来ない」という意味で、一度自分と"結婚"しちゃっているからだ。
いつだと思う?結構前の話だよ。俺らが生まれてきた時の話さ。
そう、自分がどんだけ嫌になっても、自分とオサラバすることは出来ない。
結婚という幻想を諦めて自分と契約しようと思ってももう既に、自分とは永遠の契約を交わしてある。
俺の場合は少なくとも、神が定めたわけでもなく、法律が定めたわけでもなく、自分が自分であることは、世の終わり(つまり自分の死)まで変えられん事実だ。
一体誰が決めたものやらね。
しかしながら、それはそれで、結婚式挙げる手間隙省けていい、と、逆の発想をしてみるも一興。
あるいは、嘘吐けない悪魔と契約しようと頑張ってみるとか。
足掻くからこそ面白い人間になれるか、それとも、不安を抱えた単なる爆弾になっちまうのか。
それはもう、見る人次第だろうよ。
あ、そういえば終身雇用制度も崩れようとしているねぇ。
会社と結婚できなくなった人間は、会社を如何にして愛するのか。これもまた、気になるところだ。
会社の終身雇用って、あれ、一種の"結婚"だと思うんだよね。
それにしても、しかしまぁ、何故に結婚なのだろうね。
結婚の制度っていつからあるんだろうとか、モノガミー制になったのいつだろう
とか考えるけど、
とりあえず今は、「何故、行き着く先は結婚」なのか、考えてみたい。
そもそも結婚て何ぞ?
結婚する、ということは、法律上で家族になるってことだ。
家族になると色々な特典がついてくる。
例えば、扶養控除だとか、遺産相続、緊急時に病院での代理意思決定などなど。
でもまぁ、そういうプラスアルファの部分ってのは結局、社会が後付けした部分であってさ、
根本的に何故"結婚して"家族を作るのか。
それってわからん。
エジプトの神話なんかにはもう既に結婚というか、妻と夫が二人で仲良くしやがれよ的要素があるんで、たぶん、B.C.には既にあったんだろう。
なんでそんなもんが必要だったんだろう。
法律で縛って、宗教で縛って。
人に与えられた命題が「産めよ増やせよ」なら、効率悪いと思わないか?
下手に進化しすぎたおかげで1人産むのにも時間がかかるっつーのによ。
さーて、疑問ばかりが悶々としちゃうねぇ。
例として、いくつかのケースを考えてみようか。
好き合っている男と女が居たとしよう。
言うまでも無く、法的に何の問題も無く結婚可能。
基本的に、離婚でもしない限り一緒に暮らす。
好き合っている男と男が居たとしよう。
ここは日本、同性婚は認められていない。
彼らは形だけでも、と、
結婚式を挙げてくれる教会を求めてアメリカへ。
神様の前で“死が二人を分かつまで”と、誓いを立てる。
好き合っている女と女が居たとしよう。
ここは日本、法律上の家族になるために、
彼女らは片方が片方を養子として登録することにした。
そして多々問題はあれど、
養子縁組の取り消しなんて外聞が悪いことは出来ない。
家族として支えあっていこうと、ある種の諦め。
他にも、IS、性同一性障害などなど、性のグラデーションの中にいろんな性が存在するが、それはまた今度。
上の3組に関して言える事は、
"永遠"という契約、それが
個を超えた何かによって成される。と、いうこと。
ノーマルにしろゲイにしろ、結局は
法なり宗教なりの結婚をゴールとしている。
自分達の手では「どうしようもない」決め事によって、
二人の決意を後押ししてもらうというわけだ。
まぁ、ここまでをまとめるなら、
結婚とは、人間の意志の弱さをサポートするもの。
ってところかねぇ。
人間が社会的な生物だからこそ、意思の外部委託に似たことが出来るんじゃないか。と、ちょいちょい思ってみたり。
法なり、宗教なりが決めたルールにのっとって“結婚”出来るんなら、ここまでうだうだ言わねぇよ。
よく、決め付けんなって言われるけど、未来を考える人間にとって、予測できない事はすっげぇ怖い。
それは、未来というものの予測材料が「今」だからでもある。
「今」の条件、つまり自分の心や、他人に受け入れてもらってる度合い、なんもかんも未来に当てはめてみて、そうしてふと気づくんだ。
俺は、結婚という安心できる枠組みに入れそうにない。
どうする?俺の未来は一人きりの可能性が高い。
よく、決め付けんなって言われるけど、
未来を考える人間にとって、これは恐怖だ。
君は、どうやって「今」だけ見てるんだい?
どうやったら、未来の自分を受け入れてくれる人が居ると、信じて安堵できる?
自分の心より制度を優先すればつらいと感じなくなるのかい?
そうだね、文章見てわかるとおり無限ループだ。
際限の無いこと限が無い。
だから、俺は、俺と結婚したい。
自分の事をよく知っていて、特に、自分が欲しいものをよぉく知っている。
こんなに俺のことを理解してる人間が他にいるかっての。
しかしそれは無理な話だ。
というのも、「永遠に別れることが出来ない」という意味で、一度自分と"結婚"しちゃっているからだ。
いつだと思う?結構前の話だよ。俺らが生まれてきた時の話さ。
そう、自分がどんだけ嫌になっても、自分とオサラバすることは出来ない。
結婚という幻想を諦めて自分と契約しようと思ってももう既に、自分とは永遠の契約を交わしてある。
俺の場合は少なくとも、神が定めたわけでもなく、法律が定めたわけでもなく、自分が自分であることは、世の終わり(つまり自分の死)まで変えられん事実だ。
一体誰が決めたものやらね。
しかしながら、それはそれで、結婚式挙げる手間隙省けていい、と、逆の発想をしてみるも一興。
あるいは、嘘吐けない悪魔と契約しようと頑張ってみるとか。
足掻くからこそ面白い人間になれるか、それとも、不安を抱えた単なる爆弾になっちまうのか。
それはもう、見る人次第だろうよ。
あ、そういえば終身雇用制度も崩れようとしているねぇ。
会社と結婚できなくなった人間は、会社を如何にして愛するのか。これもまた、気になるところだ。
愛することについてうだうだ1
『愛されたくて吠えて
愛されることに怯えて』
まったくもってその通りだ。
愛されたいんだ。愛の定義の示すところを知らず、それでも、僕らは愛されることを望む。
自らのすべてを受け入れて、好きになってくれる誰かを、僕らは心待ちにしている。
誰かに必要として欲しくて、その誰かが、自分の好きな誰かであってほしくて。
そうして一旦必要とされたならば、今度はその人を自分の元に繋ぎとめておきたくなる。
その人は自分が好きでいさせてくれる人だから。
自分の我儘を聞いてくれる人だから。
恋をするとはなんと我儘であることか。
傲慢であることか。
相手を所有し、相手に所有される。
その相互のパーセンテージの釣り合いは等しくなければ一方的なものとなり、恋とは呼ばれずに終わる。
あるいは、まったくもって相手に伝えられず、例え100%の声をふりしぼって叫んでも、相手から等質等量の感情を得られなくば、片恋と呼ばれ露と消えるか、狂って咲くか。
しかし、本当に等質等量でなければ恋とはならぬか。
はたまた、それは愛であるのだろうか。
否。そもそも、互いが互いに求めるモノからして違う。そのため、相手に求められる感情そして行動は別種のものとなる。ただ、相手を深く洞察し、理解しないかぎり、人間という生き物は、まず「オウム返し」に同じ行動によって返そうとする。よほど超越した人間でないかぎり、その自動的反射から逃れることはできない。あるいは、行動の経路そのものが違うか。いずれにせよ、一般とされる人間、そして“ほぼ同量”の相手に相対する欲求を持つ人間は、相手にされた行動をそのまま反射してしまう。
反射、というのには語弊があろうか。否、これでよかろう。
一説に、「人間は自分と対極にいる人間を伴侶とする」というものがある。これの原理となっているのは相補性であり、確かに、と思わせるものがある。反射、鏡写しであるならば、サイズは同じ、外見的形質は同じでありながら、やっている事は同じと見せかけてその実、逆を硝子一枚向こうで行うことができる。
自分でありながら、自分ではない、
自らの欠損を埋めるものを、人間は欲する。
しかし、それ以上をも同時に求め、彷徨う。
では、それ以上のもの、つまり自分を併呑した自らの片割れが、自らのキャパを飲み込む形で、さながら曼荼羅の白が黒を包むようにして、曼荼羅の勾玉の部分にしか満たない自分の前に立ち現れたら。
あるいはそれは、恐怖でしかないのかもしれない。
ゆえに、完璧なるものは忌み嫌われ、製造ラインから遠ざけられる。
以上の理論は、対人関係上利用すべきか否か。
自らと同じ行動をとってほしければ、このような理論は告げずに置くべきだろう。ただし、相手の自由意思、そして自由意思を見つめさせ、その者自ら導き出した行動を尊重したいのであれば、敢えてここで典型を示し、一般的行動原則に従わぬよう教唆するも一手。
と、私は思う。
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己
HN:
我丞
性別:
非公開
職業:
人の話きく人
自己紹介:
人間27年生。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!
ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。
セクマイ道7年生くらい?
心理臨床とセクマイと発達凸凹を応援するよ!
ここにあることばと存在が、私のプロダクト。
見て、わからないことは聞いて。
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